ここは、母ヶ岳の優美な姿を借景とし260余年もの歳月を経て、 歴史の息吹を今に伝える、ここは薩摩の小京都である。
薩摩藩の政治体系
江戸時代、薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の地区に分け、地頭や 領主の屋敷である御仮屋を中心に、麓と呼ばれる「武家集落」を作り、鹿児島に 武士団を集結させることなく、分散して統治にあたらせました。知覧もその一つです。
知覧麓の武家屋敷群
江戸時代の知覧は当初、島津家の分家である佐多氏が地頭として治めて いました。佐多氏には優れた当主が多く出て、薩摩藩の中でも重要な役目を果たしまし た。その功績によって佐多氏16代久達の時代に、知覧の私領地化と島津姓の使用が 許されました。現在残る武家屋敷群は、佐多氏16代 島津久達(1651~1719) の時代もしくは、18代、島津久峯(1732~1772)の時代に造られたものでは ないかとされています。地区内は石垣で屋敷が区切られ、沖縄によく見られる石敢當( 魔よけの石碑)や、屋敷入り口には屋敷内が見えないように屏風岩(沖縄のヒンプン)が あります。知覧の港が江戸時代に琉球貿易の拠点であったことから、武家屋敷も琉球の 影響を多く受けているようです。
重要伝統的建造物保存地区
「知覧麓の武家屋敷群は薩摩の麓の典型的な作例の一つで、折れ曲がった 本馬場通りに沿って連なる石垣と生垣からなる景観にも優れ、我が国にとってその 価値は高い。」として昭和56年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 また、同時に地区内の7つの庭園が「優れた意匠で構成されており、その手法は琉球庭園と 相通じるものがり、庭園文化の伝播を知る上でも貴重な存在である。」として国の名勝に 指定されました。指定された7つの庭園の中で森氏庭園のみが池泉式で、ほかは全て枯山水 となっています。
解説
西郷恵一郎庭園
庭の南東部の隅に枯滝の石組みを設けて高い峰とし、この峰から 低く高く刈り込まれたイヌマキは遠くの連山を表現している。また鶴亀の 庭園とも言われ、一変して高い石組みは鶴となり、亀は大海にそそぐ谷川の 水辺に遊ぶがごとく配され、石とさつきの組み合わせは至妙。
平山克己庭園
母ヶ岳の優雅な姿をとり入れた借景園である。北側の隅には石組みを 設けて主峰となし、イヌマキの生け垣は母ヶ岳の分脈をかたどっている。 また、どこを切り取っても一つの庭園を形づくり、調和と表現にすぐれた庭園 として絶賛。大海原には無人島が浮かんだ、遠くには緑の大陸が望まれ、想像 とロマンの世界で楽しめる。
平山亮一庭園
石組みの一つもない大刈込み一式の庭。イヌマキによる延々たる遠山は、 その中に三つの高い峰を見せ、前面にはサツキの大刈込みが、築山のようで、 母ヶ岳を庭園に取り込んで、極端に簡素化された借景園として、名園である。
佐多美船庭園
1751年に造られたもの:知覧庭園の中では最も、豪華で広い庭。 枯滝を造り、築山の上部に石灯、下部の平地には、各所に巨岩による石組みが あり、えんえんと流れ、人々に力強さと広さを感じさせる。
佐多民子庭園
巨岩奇岩を積み重ねて深山幽谷の景をうつしだし、小舟に乗って、 石橋の下を潜って行くと、仙人が岩の上から手招きしているよう。麓川の上流 から運び込んだ庭石は、凝灰岩質のもので、巨岩のため石目にそって割って、 牛馬で運びやすくしたものです。
佐多直忠庭園
門をくぐると切石の目隠しにつき当たる。屏風岩とも呼び、防衛を 兼ねた造りで、江戸時代中頃の武家屋敷の風格がある。母ヶ岳を望む庭の 一隅に築山を設けて、その中心部に3m50cmの立石がそびえ、下部には多数 の石組みを配置。枯滝を表現している。何か大陸的で、一幅の水墨画だ。
森 重堅庭園
森家は、鼈甲城の西麓にあり、領主に重臣として仕えた家柄で、 住居や土蔵は1741年に建てられたものである。曲線に富む池には、奇岩 怪岩を用いて近景の山や半島をあらわし、対岸には、洞窟を表現した穴石を 用いて水の流動を象徴している。庭園入口にある石は、庭園の要をなし、 雲の上の遠山を現している。
とにかく、どの庭園も素晴らしい!!皆さんも一度は訪れては如何かな。