人吉城跡
相良藩
通称 |
城郭構造 |
築城主 |
繊月城、三日月城 |
梯郭式平山城 |
相良長頼 |
築城年 |
主なる改修者 |
城主 |
1204~1206年 |
相良義陽、相良頼寛 |
相良氏 |
廃城年 |
遺構 |
指定文化財 |
再建造物 |
1871年 |
石垣、土塁 |
国の史跡 |
櫓、塀 |
人吉市麓町に在り、相良氏が鎌倉時代に地頭として、遠江国ー相良荘国人の相良長頼は1205年に人吉荘に赴任して以来、35代
670年の超長期にわたり在城し、江戸時代は人吉藩(相良藩)の藩庁であった。市内中央部を流れる球磨川の南側にあって、その支流:
胸川の合流点の山に築城して、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀、東と南は山の斜面と崖を天然の城壁にし、巧みに利用している。
球磨川沿いに三の丸、その南に二の丸、さらに深まった丘陵上に本丸を配置。本丸には、天守はなしで護摩堂があったといわれる。
幕末に築かれた石垣の一部には、「武者返し」と呼ばれる独特の石垣ーヨーロッパ築城技術ーその工法を応用した。これは、城壁の最上
部分に平らかな石がやや突き出して積んであり、ねずみ返しのようになっており、城壁に張り付いた敵への攻撃にも使えるようにして
いる。この城壁は五稜郭・鶴岡城にしかない。どれも、人吉城の石垣規模ではない。
鎌倉時代
源 頼朝に仕えた相良長頼は1205年人吉の地頭に任ぜられる。この地域は平 頼盛の家臣 矢瀬主馬佑が城を構えて支配する所
であった。しかし、主馬佑が長頼に反抗したため、鵜狩りと称して誘き寄せ謀殺された。主馬佑の母・津賀悲しんだ末、恨みをもって自
害し、亡霊となって祟ったという。長頼は主馬佑の城を拡張し、人吉城の礎を造った。築城の際、三日月型の模様の入った石が出土した。
別名:「繊月城」「三日月城」。
戦国時代・安土桃山時代
戦国の世になると、相良氏は、球磨地方を統一する。1526年相良氏の身内の問題で弱点をさらけ出して、日向真幸院を治める
北原氏が率いた大軍(一向宗を率いてたらしい)により人吉城は包囲。相良義滋は策略で北原方を追い帰し事無きを得たが、人吉城が
他家に攻められた唯一の出来事。19代当主の相良義陽によって1573年~93年より城の大改修に取掛るが、度々改修中断があって、やっと
1639年に22代頼寛によって、漸く、近代城郭に生まれ変わった。
島津氏・北原氏、大友氏などに脅かされ良く耐えていた。しかし、1581年に島津に降伏する。相良頼房は1587年秀吉の九州征伐
の時も奮戦するもついに降伏。家臣 深水長智の交渉にて、再度、独立領主として城と領地を安堵。1600年の関ヶ原の戦いでは、石田三成
方に付き伏見城などを攻めるが、本戦で石田方が敗北なるや徳川方に付き、応戦し、家康より2万2千石の領地を安堵す。
江戸期
1802年には城内から出火、1862年2月、鍛冶屋出火があり「寅助火事」なる大火災。これ等2度の火災で、城は全焼、その後、
一部再建あった。
近現代
1871年には廃藩置県によって、廃城。
相良藩2万2千石と20代・頼房、21代・頼寛に仕える家老・相良清兵衛頼兄(犬童頼兄)の関係
関ヶ原の戦い後、生き残った相良藩。頼房は母を江戸に送って、徳川幕府へ忠誠・誓を立てる、そうして人吉・球磨の相良藩主を保持。幼少で当主になった関係から
か、補佐役が多かった。彼も成長と共に当主の活動が始まる。内政面に力を注ぐ。
頼房は、城と同時に町内整備・産業育成も促進。各地から商人・職人の誘致・農地の開墾、さらなる発展も必要であり、江戸・大坂・博多・長崎への流通経路の必要
性と海運(輸送)も欠かせなかった。
1620年:熊本で地震発生、八代城の破損多し、八代郡代の加藤 政勝が相良藩に、城の修理使用として、木材購入打診有り、相良藩は、「現在、大坂方面に航行する船場
を持たず、不自由をしている。材木を提供する代用に土地を借用し大坂への船便に供したい…」との条件を。加藤藩は事情を理解した。材木と引き換えに植柳(八代市)に舟 仮屋
の設置許可あり。このように当主・頼房は内政充実に力を注いだ。
舟 仮屋には、仮屋のほか、相良家の茶屋・円通庵があった。仮屋には、番代が常任しており、舟子が70名ほど居住、相良藩窓口としての役目を果たしていた。
頼房(改名:長毎)が天下の動乱を乗り切り、城改修と内政に専心できたのも、家老・清兵衛頼兄(犬童 頼兄)による力が非常に大きかったのである。彼は、父犬童 頼
安とともに頼房が継いだ相良家を支え、関ヶ原の時は、お屋敷を護り。行政面でも経済基盤を充実した。そうして、家臣を統率する力は抜群であった。頼房は清兵衛の力のバック
アップなしでは成り立たなかったといえます。その辣腕さは権力を独り占め、次第に専横政権へとなった。
清兵衛の所領は公称2千石。一説にはそうは行かず、8千石~1万石とも。相良藩は2万2千石だ。本当なら、尋常じゃない。お殿様のサイフは空っぽ!清兵衛は岡本(現在:
あさぎり町・岡原)に隠居所といいながら城下町までつくり、人吉から商人・町人を呼んで賑った。
1636年、頼房が死亡。21代相良 頼寛が当主。1637年には島原の乱。相良藩にも出陣命令がでます。その時、頼寛は江戸滞在の身分。名代ー清兵衛に出陣の指揮、出渋って
出陣を遅らせる。-後に、「島原の乱に相良藩は加担するのでは・・・・!?」その嫌疑の噂も出た様で、その影響か人吉城は改修が天守を閣造営されぬまま終了した。
この21代・頼寛は、1640年5月、ついに清兵衛を幕府所定所へ訴え出ます。頼寛が訴え出た内容(要約)は・・・・
①岡本に隠居所造営にあたって、人吉城下から大勢の商人・町人たちを召し寄せ住まわせたため、城下を衰微させた。
②清兵衛は内蔵助頼安(清兵衛の息子)と談合して家中の知行を調べ、二百五十歩を一反とし、それで生じた三千石あまりを横領した。
③当主不在の際、藩主に随行した家臣30人の知行を没収し、家臣で先代当主・長毎(頼房)より貸し与えた金銀の返済不能者に厳罰をあたえながら、清兵衛の近親者には優遇
した。
④頼房・頼寛へ忠勤を励んだ家臣を、偽りの嫌疑で知行没収や改易をおこなった。また巧みに恩を着せて味方に付けた。
⑤島原の乱の際、出陣を渋った。
⑥頼房の治世の頃、藩の出納をほしいままにした。
⑦その知行を証さず、推量で一万石とも、二万石とも、思われる収入がある。
⑧息子・内蔵助頼安が江戸で死去したさい、家来に殉死者が出たが、その子頼章が止め、「もし頼章に家老職を申しつけられないときは命を捨てて奉行せよ・・・・」と申
し聞かせ、その心情心分明らかなること。
清兵衛の横領については、先代・頼房が遺言状に書き残していたようです。頼房も清兵衛には悩んでいた。当時の清兵衛の力は当主すら凌駕し、「お目見え得」のため勝手な
制裁も出来ず、徳川将軍の威光で排除するしか。
球磨川下り
① 清流 コース人吉発船場(人吉市下新町)より90分の川下りで、渡着船場(球磨村渡) ②こたつ船 人吉発船場(人吉市下新町)90分の川下りで、渡着船場(球磨村渡)