臼杵城跡
臼杵城とは
臼杵城
大分県臼杵市に有って、中世~近世の平山城跡(海城跡)戦国時代に大友 宗麟により建造。それが、江戸の世となると
臼杵藩の藩庁が設置されて明治維新まで続く。 臼杵城は、戦国の世、1562年 府内 大友館より拠点を臼杵に大友 宗麟により、丹
生島(臼杵湾に浮ぶ)に築かれた。その後、大友氏改易後、城主は 石田 三成の妹婿である 福原氏、太田氏を経ていった。なお、関
ヶ原の戦後、 1600年に郡上八幡より城主として 稲葉 貞通が入った。以後、稲葉の15代通した城となった。
城郭 3層4階の天守と31基の櫓が上げられた。ここの櫓は総二階造り(上下階の平面が同じ)それを、二重櫓。
廃藩置県後は、天守以下、建物は一部を残し、取り壊され周囲の海も埋め立てた。
2007年の本丸天守台の発掘やリサーチに拠ると、石垣や整地層の遺跡物より天守台石垣は1594年~1600年の間に建造。これ
は、城の天守の建造時期と一致する。また、1655年の天守の大修理があったことがうかがえた。
その後、臼杵城絵図の天守の様子は、大天守から東北方向に向けて、5つの付櫓を組み合わせた梯立式天守。
今は、城郭は公園として整えられて、石垣とか空堀は残っている、二の丸の畳櫓が本丸に、切妻作りの卯寅口門脇櫓が遺跡。
臼杵藩について
大分県海部郡の藩 鎌倉~戦国に経過して大友氏の支配下にあったエリア。 大友 宗麟(キリシタン大名)
の治世末期に島津氏(薩摩国)の侵攻の危機に立った。大友氏は丹生島城(臼杵の前身)に籠城して凌いだ、この時期、秀吉
の九州征伐により、島津氏は討伐されたことから、滅亡の危機を脱した。文禄の戦いで大友 宗麟の子 大友 義統が卑怯な
る振る舞いをした理由で秀吉の怒りを買って改易され、大友一族は終焉した。その後、臼杵には太田 一吉 6万5000石で入城
してきた。1600年の戦で、一吉は石田 三成との関係で西軍のため没落した。西軍から東軍へ寝返った稲葉 貞通が武功を挙げ
たことにより、郡上八幡 4万石→臼杵5万石となって、藩主の祖となった。上手に、斉藤 道三や織田 信長に仕えた。江戸時代
に稲葉名を持ったものがもう一名居た。彼は幕閣・譜代大名にまで至った。それで、稲葉 貞通系は、関ヶ原戦い後、外様大名
として扱われていた。
大友 宗麟
1530年に大分県府内に生まれる。大友21代当主、鎌倉~戦国で、少弐氏、島津氏と共に幕府御家人
集の束ねとして権勢を振い、室町に入って大内氏を追出し少弐氏と共に抗争している。
海外貿易による経済力の優れた武将陣、巧みな外交手腕家だった。大内氏とか毛利氏等の土豪・守護大名
等に取り囲まれた戦国の北九州を平定した人物。
初めは、禅宗に帰依していたが、後にキリスト教に関心を強くして、自ら洗礼を受けた。彼の最盛期は、
九州六ヶ国の平定拡大していた。また、時を同じくして、「反 宗麟派」は粛清されたのであった。
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