野上弥生子は、1885年(明治18年)大分県の臼杵町に、酒造業を営む小手川 角三郎 とマサの長女 ヤエとして生まれました。弥生子は学校教育のほか、国文・漢文の古典と英語の 個人教授を受ける一方、自家の周辺で郷土色豊かな幼少期を送りました。
14歳で勉学のため上京し、明治女学校入学し、この学校で、自由主義的教育を受けた。 この間、臼杵中学、一高、東大へと進んだ同郷の野上 豊一郎を知り、卒業と同時に結婚しました。
夫の文学的環境の中で自己を啓発、21歳で習作「明暗」を執筆、続いて処女作「縁」を ホトトギスに発表しました。また「青鞜」の創刊に協力し、女性の自立の方向を模索しました。
記念館には、少女の頃からの直筆原稿・遺品など約200点を展示。臼杵で実際に起こった 遭難事件をモデルにした「海神丸」は出世作となった。「迷路」は1957年(昭和32年)に、第9回 読売文学賞を、そして、傑作である「秀吉と利休」は、1964年(昭和39年)に第3回女流文学賞を それぞれ受賞した。さらに、1971年(昭和46年)には、文化勲章を受章した。彼女が87歳の時、 第1章が発表された「森」は、1985年(昭和60年)3月30日に逝去するまで、断続12年間書きつづ けられ、惜しいことに未完に終わってしまった。
「森」1972年5月の第1章時に作者の言葉も同時掲載
一部、抜粋:あとから考えれば考えるほど奇妙な入学をした私の女学校の普通科高等科 とつづいた六年間は、まさに私にはこころの揺籃にあったとしてよい、とこれもあとになるほど 強く意識される。女学校そのものがもともと風変わりで、学校よりむしろ塾で、地理的にも市井から 遠い森の中の一種の共同体にひとしかったので、そこで得たものは一般の女学校のそれとは異なって いたうえ、在学中に生じた一つのよのつねならぬ出来ごとは、神なるものをおぼろげ知り、人間を、 また世の中というものを幼稚なりに考えることを教えてくれた。それ故まずそれから書こうとして、 私はあらたな逡巡を禁じ得ない。
1984年(昭和59年):99歳の時、1月に「森」第15章「春雷」(新潮)を発表。 翌年、3月30日(昭和60年)に亡くなる。この内容は、明治33年、15歳の菊地加根は九州から 東京の森の学園・日本女学院に入学した。令名高き校長のまわりに集う青春の群像。学校行事 四季の移ろいとともに変貌する友情、愛、嫉妬、憎しみ、そして故郷の家族との濃密な関係… …。寄宿生園部はるみは自分が伯父と女中の子であることを知った。心揺れるはるみへの校長と 医学生の劇的な愛の嵐、肉体と霊の葛藤……。瑞瑞しい文体で描く豊潤なロマネスク小説。である と本の帯に表示されている。