POSTCARD XIV

POSTCARD XIV

                       ポップアート                       

 第2次大戦後、アメリカ美術はヨーロッパの影響から自立を目指して、独自の表現を模索します。世界に向けて発信していく中で、絵画は大きな役割を果しました。その革新性に満ちた アメリカ現代美術に焦点を当てたミスミ・コレクションは先見性にあふれる個性的な内容が高評価をえている。質の高い版画作品と若手作家による絵画にスポットライトを当てた収集作品です。 

        櫻井 武(熊本市現代美術館館長)さんの解説文より        

 ポップ・アートは、20C.が生み出した最大の美術運動の一つでした。影響力は広く持続的、世界が受容し、誰もが知るアートで、美術史上最初のグローバルな文化現象となったといっても 良い。第2次世界大戦後の1950年代中頃にイギリスで起こり、1960年代になってアメリカで強力な美術運動となって世界的になってい行った。各々個性や思考、表現方法は異なりますが、大西洋を 隔てて一大潮流を形成していった。原点はロンドンであり、ニューヨークでした。当時既に、イギリスの一般市民の生活に浸透していた。アメリカ大衆文化を背景として生み出されたのが誰もが知 っている最も身近な素材をテーマとしたアートだった。その素材とはフランスの哲学者ロラン・バルトが指摘するように、それまでの芸術とは無縁な「美学」と称するものの領域外のものだった。 

 第2次大戦後、アメリカ経済は急成長を遂げていきましたが大量生産・大量消費がもたらした大衆文化を基盤とする、この徹底したアメリカ的美術運動が何故最初にイギリスで起こったかは大 いに興味を引く。大戦でイギリスはドイツの爆撃を受け、甚大な被害をこうむり、精神的にも物質的にも疲弊した灰色の戦後を迎えた。一方、アメリカは、本土攻撃を受けることが無かった。それで、 その経済は、急速発展し、ポップ・ミュージック、ムービー、コミックカルチャー食料品や広告等が豊かなアメリカンカルチャーがイギリスに流入したのです。アメリカの商品や大衆文化はイギリス の人々にとって眩しいものだった。もう一方で、イギリス特有の懐疑的で皮肉な視点を持ちながら、好奇心に満ちた当時の若手アーティストたちにとって、それは絶好のテーマとなった。1950年代に アーティストや評論家の集まり「インデペンデント・グループ」が結成、ロンドンの現代芸術研究所(ICA)で新芸術表現が模索され、尖鋭な展覧会が実現していった。この新運動を形成していく流の 主軸となったのは、ロレンス・アロウェィ(評論家)、絵画や彫刻で斬新な展開を見せたエドウアルト・パオロッツィ、リチャード・ハミルトン、ピーター・ブレイク、ディヴィット・ホック二ー等、 一般的にポップアートの命名者と言われるアロウェイは、大学・美術館・労組の集会等でも講演を行い、芸術を社会の極限定された集団や特権階級のものではなく、より開かれた一般大衆のものに拡大 すべきだと主張した。1956年に「これが明日だ」展がロンドンのホワイトチャペル・ギャラリーで開催。これが「ポピュラーなアート」を一挙に推進し、歴史を画するエポックメイキングとなった。この 展覧会のポスターやカタログの表紙デザインとなった作品「一体何が今日の家庭をこんなに目立たせ魅力的にするか?」の作者ハミルトンは、ポップアートの特徴として「ポピュラー」「安価」「機知」 「セクシー」「ビッグビジネス」等を挙げています。また「芸術は平等である。その価値に階級差などない。エルビスもピカソも同様でありテレビだっての影響力を見れば、ニューヨークの抽象表現主義 と同じだ」と語っている。 

 1960年代の初頭に開花するアメリカンポップ・アート運動の直前には、アメリカが最初に生み出した独自の美術といえるポロックやデ・クーニング等の抽象表現主義(アクション・ペインティング) の激しい運動があった。これは具象的な再現描写を否定して、身体行為が表現の表舞台に現れ、ルネッサンス以来の絵画の概念を大きく変えるもの。これが主流となり、ストイックなシリアスな運動の 反動として、ロバート・ロージェンバーグとジャスパー・ジョーンズに代表される「ネオダダ」が起こった。(例)ジョーンズは、星条旗とか数字、ダーツの標的等、具体的で誰もが知っているイメージ を作品に組み込み、今までの美術に根源的な問いかけを行った。また彼のブロンズでビール缶そのものをキャストして彩色した「彫刻」は、ウォーホルのキャンベル・スープ缶のシリーズに先行し、間もな くやってくるポップアートを予言している。ロージェンバーグとジョーンズこそ、アメリカン・ポップアートの先駆者であり、彼等の活動のさなかにアンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンスタイン、クレ ス・オルデンバーグ等のポップアーティストが出現してきた。イギリスのアーティストの殆が研究所・大学等が活動拠点だった。比べて、アメリカン・アーティストになる前には、第一線のデザイナーや イラストレーターとしてニューヨークで活躍、リキテンスタインはデパートのディスプレイ・デザインや工業デザインに関わり、ジェームズ・ローゼンクリストは看板描きでした。彼等は商業デザイン出身者 であり、その経験と技法のコンセプトをフル活用して革命的な創造活動を展開したのが特徴となる。 

 1960年代以降のアンディ・ウォーホルにとって重要な制作技法は、大量生産に適し、発色のいいシルクスクリーンでした。彼は印刷物で通常は価値を落とす「版スレ」を利用して高度で多様な一点制作 を生み出しています。これがウォーホルの代名詞ともなるスクリーンプリント作品。ウォーホルがファインアーティストとして最初の個展を開いたのは、1962/07/09~1962/08/04迄、ロサンゼルスの フェラス・ギャラリー。作品→キャンベル・スープ缶をテーマにした:衝撃的であった、そして美術界に物議をかもした。キャンベル・スープ缶は、後のモンロー等の肖像画やドル紙幣の連作と共にウォーホル の代表作となります。彼の特性を象徴するこの作品はクールでメタリック、正に、ウォーホル自身のアイデンティと言える。1962/12、ウォーホルのニューヨークで初めての個展はステーブル・ギャラリーで 開催。有名人の肖像画シリーズがここで始まります。黄金のマリリン、赤いエルビス、そしてキャンベル・スープ缶、コカコーラ、ドル紙幣等の作品が並び、ポップ・アーティストとしての彼の名前を不動のもの とした。この様にウォーホルの作品には喜びや悲しみや怒りと言った感情は一切現れず、彼は冷酷なほどクールな作品を制作しました。批評家達はその彼を、世界を反映するブリリアントな鏡である評価。 1960年代のアメリカは、マリリン・モンローの死、ケネディ大統領やキング牧師の暗殺、ベトナム戦争の泥沼化等、価値観が大いに揺れる悲劇の10年でありました。ポップ・アーティストたち、とりわけ、 ウォーホルはこの時代の変動を鋭く捉え、作品に反映されていきました。その華やかな鮮やかな作品世界と、アーティストとしてカルト的存在であった一方で、あまり見えてこないウォーホルの宗教的側面がある。 この宗教性を見ずしてウォーホルの深い理解は不可能だと主張する専門家もいる。彼は生涯、敬虔なビザンチン・カソリック信者であって、ほぼ毎日教会を礼拝に訪れ、15分の祈りを奉げ、またしばしば奉仕活動 も行っていた。彼をよく知る司祭は、ウォーホルは、極めて内気で、寡黙、そして孤独を愛する信者であったと語っています。その時彼は、アンディ・ウォーホルではなく、スロヴァキアからの移民の子アンドリュー ・ウォーホラでありました。育った家のキッチンには、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の複製が架かり、キリストの眼差しの下で少年時代の彼はスープを飲み、聖なる時間を過ごしたのです。ウォーホルの最後の作品 はダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の連作でした。1987年1月、ミラノのダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の「飾られている教会前のバンクとニューヨークの画廊で個展が同時開催され、それはウォーホルの亡くなる前の 1ヵ月でした。 

 アンディ・ウォーホルと共にアメリカン・ポップ・アートのもう一人の代表者ロイ・リキテンスタインは、マスメディアに現れる印刷の網点(ドット)を取り込みながら連載漫画の一コマを抽出して、拡大して 描いた作品で有名です。リキテンスタインは、漫画が強烈なインパクトと表現力を持っていることに気づき、その特有の単純明快で強烈な線、鮮明な色彩、誇張された表現を、古典的な油彩で表現しています。大衆文化 からの鋭い引用。そして、絵画だけでなく、その延長ともいえる方法で、彫刻作品を制作している。特筆すべきは、誰もが目にする日用品が、リキテンスタインという一個のアーティスト世界に取り込まれ、大型平面 作品に生まれ変わるだけでなく、巨大な彫刻作品としてリキテンスタインらしい形と色彩をまとい、逆に社会に浸透していきました。それはポップ・アートからパブリック・アートへの展開とも云える。コロンバス( オハイオ州)の空港や、マイアミ(フロリダ州)、そしてニューヨークのタイムス・スクエアの地下の壁画が、日々何万人という人々の目に触れているのです。またクレス・オルデンバーグの場合は、いかにもアメリカ的 な日用品の巨大彫刻で有名。その大胆なアートは、当初批判を受けながら徐々に人気を高めていった。鮮やかな色彩と超現実的なスケール感のオルデンバーグ先品は、まるでお伽話の風景のように巨大ハンバーガーや 洗濯バサミ等、衝撃と笑いを誘うユーモラスなアートであり、自然と都市空間の双方にマッチする魅惑的な彫刻なのです。 

 ロラン・バルトに「ポップは事物の本質の芸術であり、存在論的芸術である」と言わしめたポップ・アーティストは、芸術の概念をラディカルに変え、表現領域を一挙に拡大した。また「一度ポップ・アートを知る と、アメリカは二度と同じように見えなくなる」とウォーホルは語りました。この「アメリカ」は「世界」と言い換えることができ、ポップ・アートは世界の見え方を変えたということができましょう。現在では 「サブカルチャー」には、もはや否定的要素はなく、むしろ時代特有の価値や新たなステータスが付与されています。半世紀前、高尚な芸術と大衆文化というそれまで区分されていた境界線を超え、文化のヒエラルキーを 取り崩し、無視されてきた文化領域に光と価値を与えた、これがポップ・アートの最も影響力のある特徴でありました。今あらためてポップ・アート展を行うことは、半世紀前に激しく問題提起した「サブカルチャーと ハイアート」、「身体とテクノロジー」、「アートと社会」、「個性と大量生産」等の多くの問題点を再浮上させ、新たな今日的問題提起をする機会になろう。 


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     ロイ・リキテンスタイン   <泣く少女>     


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     ジャン=ミシェル・バスキア   <後頭部>     


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     ディヴィッド・ラシャぺル   <ハンバーガーによる死>     


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     マリーナ・カポス   <059,ロニー,2002>     


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     キース・へリング   <グローイングⅠ>     


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     ディヴィッド・ホックニー   <グレゴリーの肖像>     


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     アンディ・ウォーホル   <キャンべルスープⅡ>     


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     イラスト/キタカゼパンチ⇒ <アンディ&サム>