ジェーンズ邸②

ジェーンズ邸②

     早速、「ジェーンズ邸①」:訂正箇所   1976年(m-9)の1月30日⇒1876年(m-9)の1月30日とする。      

                       熊本洋学校教師館ジェーンズ邸                       

 1877年(m-10)の2月に熊本を舞台として西南戦争が始まりました。この時、官軍の総督として有栖川宮熾仁親王がこのジェーンズ邸を宿舎としました。この戦争を心配した佐賀県出身の元老院 議官佐野常民は敵味方の区別なく負傷者を助けたいと考え有栖川宮に博愛社設立の許可を求めにやってきました。有栖川宮は5月3日に設立許可を出したので佐野は泣いて喜んだそうです。激戦で有名 「田原坂」の隣にある木の葉町の「正念寺」「徳成寺」というお寺、あるいは民家を病院として官軍、薩軍の傷兵約1400名を助けました。その後佐野の粘り強い努力の結果、博愛社の組織が大きくなり 充実した1886年(m-19)、日本政府はジュネーブ条約に調印しました。博愛社が1887年(m-20)世界赤十字の仲間入りをしたときに日本赤十字社と名称を変えました。このジェーンズ邸の二階で博愛社設立 の許可がおりたことから、ジェーンズ邸は「日本赤十字発祥の地」と呼ばれています。前庭にある「愛の手、とこしえに」は生誕100周年を記念として作られた。 

 「ジェーンズ邸」は最初は熊本城内の古城と呼ばれる処に建てられていました。県立第一高校が建てられている処。その後1887年(m-20)に熊本県庁が南千反畑町に新築された時にジェーンズ邸も 庁舎の北側に移転、そうして、県の物産館、県立女学校の仮校舎、日露戦争時のロシア人将校の捕虜宿舎に使われた。1932年(s-7)からは水道町に移転し日赤の県支部、及び血液センターとして使用され、 1970年(s-45)に現在の水前寺に移転し、熊本県重要有形文化財となっています。 

               邸内の展示資料・展示品・展示物をランダムに               


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                       洋学校教師館の歴史                       

(2)  西南戦争と博愛社創設ーー日赤記念館   

 1877年(m-10)に西南戦争が始まり、熊本城は薩軍の包囲攻撃を受けました。古城にも落下し火の手があがりましたが、幸い洋学校教師館は戦火を免れました。4月14日に熊本城の包囲が 解け、征討大総督有栖川宮熾仁親王も入城され、この教師館が御宿所に充てられました。ちょうどその頃元老院議官佐野常民らは、戦争による戦傷者の悲惨な状況を見て、敵味方の別なくこれ を救済することを考え、征討大総督の許可があればその活動ができる見込みがついたので、有栖川宮にその許しを願い出ました。5月3日にその許可がおり、早速博愛社を設立し、敵味方の別なく 救護を行いました。これが日本赤十字社の前身となり、教師館が発祥の地となりました。 


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(3)  明治・大正期ーー県施設時代   

 1886年(m-19)から県庁は新南千反畑に新築を始め、翌1887年(m-20)1月から新庁舎で事務を開始しました。教師館もこの時庁舎北側に移転し、物産館として使用されました。1904年(m-36)4月に 県立女学校が設立されましたが校舎ができなかったため、この教師館が1906年(m-38)3月まで仮校舎として使用されその後は日露戦争のロシア人捕虜宿舎となり、戦争が終わるとまた物産館として使用 されていました。 


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(4)  水道町時代ーー日赤支部時代   

 1932年(s-7) 日本赤十字社は、教師館が日赤の発祥地であることから、県の譲渡を受け願正寺町の日赤熊本病院内に移し日赤記念館及び日赤熊本県支部事務所としました。1945年(s-20)の 戦災にも難を免れ、1967年(s-42)まで日赤の県支部及び血液センターとして使用されました。 


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(5)  水前寺公園時代ーー文化財保存時代   

 ところが日赤県支部事務所として狭くなったため、新事務所が南側に建設されました。その時から記念館移転が問題となり、県・市・日赤で協議され1970年(s-45)10月に現在地に移築復元 されました。1970年(s-45)11月 熊本市有形文化財指定、翌、1971年(s-46)5月には県指定となり現在にいたっています。 


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     L. L. ジェーンズ(1837~1909) :     

 アメリカ合衆国オハイオ州ニューフィラデルフィア市生まれ、陸軍士官学校を卒業。南北戦争(1861~65年)に北軍将校として参加し大尉に昇進しました。戦後メリーランド州で農業をして いましたが、熊本洋学校教師として招聘を受け、1871年(m-4)8月に熊本に着き9月から授業を開始し1876年(m-9)9月の廃校まで熊本の若者達の薫陶にあたりました。熊本を去ったあと大阪英語学校に 赴き1878年(m-11)7月に帰国しました。その後1893年(m-26)に再来日し第三高等中学校や鹿児島高等中学校等で教師を勤め1899年(m-32)に帰国しました。1909年(m-42)3月27日に亡くなり、遺言により 遺体は火葬され、サンフランシスコのライト山上に散骨されました。 

 ジェーズの招聘に尽力したのは横井太平(小楠の甥)でした。熊本藩では洋学校を興して英才教育しようとしたが、教師の人選に困っていました。その頃体を悪くして帰国していた横井太平が 自分の師であるフルべッキに依頼しジェーンズが来日したのです。 


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     ジェーンズの功績(いろいろな分野で活躍した生徒達)     

     ○ 言論界の徳冨蘇峰(大江義塾創設者)     

     ○ 宗教界(日本キリスト教会)の海老名弾正、小崎弘道、宮川経輝      

     ○ 教育界の横井時敬(東京農業大学初代学長)、中原淳蔵(九州帝国大学工科大学長)、加藤勇次郎(前橋英学校創立)、遠山参良(九州学院初代院長)      

     ○ 同志社関係の小崎弘道、横井時雄、下村孝太郎、原田助      

     ○ 実業界の石光真澄(ヱビスビール支配人)、市原盛宏(朝鮮銀行総裁)     

      また自由・自主独立の気風や男女平等思想は、日本で初めての男女共学を実施して、日本でも早い時期の女子教育の学校、熊本女学校ーー1887年(m-20)に、ーーこの流れです。