両子寺

両子寺


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両子寺とは
国東市安岐町両子の両子山(721m)の中腹にある天台宗の寺院。山号を足曳山ト称ス。718年(養老 2)に仁聞菩薩により開創と伝えられ六郷 満山の中山本寺で、山岳仏教の修行の中心地で栄えた。江戸時代には杵築藩の最高祈願所となり、六郷満山の総持院として、満山を統括する立場 にあった。無明橋を渡って山門に続く石段の両脇には、国東半島最大級の総高 2m45cm、仏像高 2m30cm の石造仁王像が立っている。県指定史跡と して、九州西国霊場第六番・国東六郷満山霊場第十三番。明治初頭の神仏分離、第二次世界大戦等の法難、自然災害・人為災難等から、次第に往時の 姿は薄れて、ただ、歴代住職と懸命な精進と壇家信徒の護持によりわずかながらも、面目を保って今日に至っている。信仰として、子授け祈願所、 安産・厄除け・交通・家内安全・航海安全等の各種祈願や幼没水子、先祖供養が、一般、檀家を問わず開放し、厳修されている。

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国東六郷満山
国東天台寺院の総称している。国東半島のほぼ中央に聳える両子山から放射状にくにさきの谷々は海岸へと広がり、約28谷を六つの里に分けて、六郷 と称し、この地に開かれた天台宗寺院全体を総称して六郷満山とと呼び、奈良、平安、鎌倉の昔より、宇佐八幡(全国八幡の総本社)の庇護と影響の下に 神仏習合の独特の寺院集団と信仰が形成され、往時には半島一帯に185の寺院、洞窟、僧坊を含めて約800の大小の堂また、石仏・石塔が点在し、ほとけの里 と言われる六郷満山仏教文化圏が開かれて来た。それから、1300年の星霜、寺院の栄枯盛衰があれども、素朴な信仰は連綿として今日まで継承、仏像・野の石 仏、石造物、諸民俗的伝承行事、そして恵まれた自然環境の中にいにしえの素朴な息吹を感じる処。ほとんどの寺院の開基は仁聞菩薩で、718年開創以来やがて 1300年の節目の時を迎えんとしています。

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護摩堂
山岳修行の根本道場にして本尊 不動尊をはじめ諸仏を祀る。(観音菩薩、阿弥陀如来、毘沙門天、歓喜天)など、ここは明治2年火災焼失後、20年余りの歳月 を費やし、明治25年に原型通りに再建築した。四方方形の建築物。構造は、扇タル木、二段化粧、殊に外陣に外陣の天井組木には故人の苦労を偲ぶ。護摩堂の本尊 は、不動明王像です。ーーー鎌倉時代作 祈願の護符を焚く為、護摩堂内は黒光りになっている。

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大講堂
明治維新の廃仏稀釈により火災焼失した。1992年(平成3年)に再建築された。堂内には釈迦三尊像天台・伝教両大師像が奉安されている。一般には、講堂は法を 説き論ずる場所として建立されますが、国東半島の場合は、その他に、旧正月に開かれる修正鬼会の道場にもなる。

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奥ノ院本殿
此処は、懸崖造りで、建物は、1846年(弘化 3)に旧杵築藩主 松平候の寄進によるもので、境内の奥まった処にあります。千手観音立像、両子大権現、宇佐八幡神、 仁聞菩薩が祀られ不老長寿と子授け申し子祈願の霊場。

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国東塔
国東半島を中心に分布する宝塔の一種である。この国東塔形態:一番上の部分から下へ眺めると、相輪・笠・塔身・台座・基礎の五つの部分より出来ている。台座の部分は 反花と蓮華座が設けられ、相輪の宝珠が火焔付きになっている。石造国東塔は、事例が限られている。ここの国東塔は、1971/03/23(昭和46年3月23日指定)⇒大分県指定有形文化財 として。国東塔は総数は、約500基といわれ県内の北部~西部に分布、その9割は国東半島にある。歴史的に鎌倉時代後期1283年(弘安 6)の銘がある。岩戸寺の国東塔が在銘最古のもの、以降 南北朝時代、室町時代、江戸時代に至るまで、さまざまな時代の国東塔の確認。建造の目的とは、納経、家内の繁栄祈願、墓標、逆修(死後の冥福を祈って仏事を行うこと)などのため。名前の 由来:1912年(m 45)に天沼俊一(京都帝大)さんが、富貴寺大堂の修理に国東半島を訪れた際に、半島一帯に特異な形式の宝塔が分布していることを知り、地名に因んで名付けた。なお、地元 古老『いぐりんさん』と呼んでいた。

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岩張もみじ(パワースポット)

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