きれいどころ

きれいどころ

博多券番ー博多の芸妓
芸妓の取り次ぎや花代(出演料)の清算等を行う事務所のこと。1889年(m-22)、始めて券番が出来た。相生券番、1897年(m-30)中洲券番、1901年(m-34)、 現在博多区千代二丁目に水茶屋券番が出来た。戦時中は完全に消滅した。大戦後、券番は各々復活したが、以前の様ではなく、1985年(s-60)に全てが一つに まとまり、博多券番が現在に至る。     2000/09/27 西日本新聞朝刊引用より
栄枯盛衰
博多芸妓の歴史的に眺めると、▼登場したのが江戸時代の中頃以降、大阪の芸妓の地方出張とみなす、長崎の茶屋(滞在が100日以下)は、長く滞在出来なかったので、 一時、博多で稼ぎ再び長崎へ戻った。その中から博多の街に、定住する者が出てきた。それがルーツと言われている。▼明治、大正期には、博多の芸妓はおおらかできっぷがいいとの 評判で世間に知られた、2000人の芸妓を抱え、築地・日本橋と並び称される。▼昭和初期は金融不況で、不景気で、ピークでも850人程になった。▼戦後、20年を過ぎると時代の移り変わり とともに、芸妓の数も数十人と激減してしまい現在のところ博多券番は二十二人。それで、東京から長唄・小唄・清元・常磐津・俗曲、花柳流(踊り)、三味線・笛・太鼓・つづみ等の師匠を 招き、稽古をつけてもらうなど、少数精鋭で芸の精進を深めている。▼また、2000年7月から博多伝統芸能振興会が育成中の半玉(見習)芸妓も2002年に一人が一本立ち(フリーランス)するなど、日夜 稽古に励んでいる。     2000/09/27 西日本新聞朝刊引用より

<a>

<b>

<c>

<d>

<e>

<f>

<g>

<h>

<i>
幟に”博多献上道中”とは
ここでは博多のきれいどころが献上博多とも呼ぶ博多織の着物で勢揃いしていたのでスナップした。
博多織の特徴とは
細いたて糸を多く用い、太いよこ糸を筬で強く打込み、主にたて糸を浮かせて柄を織出すのがこの博多織である。先染または先練り。材料は絹糸、金糸、銀糸など。生地に厚みや張りがあって、帯と しての用途に適している。博多帯が締め心地は良い。「キュツキュツ」と絹鳴がするそうだ。力士の相撲帯は幕下以上での地位にならなければ博多帯を締めることは許されない。博多織の中で上質な「献上 博多」は、独鈷と華皿(共に仏具)と子持縞をあしらった模様が特徴。献上博多は福岡市地下鉄博多駅のシンボルマーク。今ではほとんど博多織製品は機械織。産地としては、博多・福岡市内・福岡県内外 各地で生産されている。それで、博多織工業組合が取りまとめを行って、品質を証明する証紙の発行を行っている。「博多織」の商標(トレードマーク)博多織工業組合が有しており、地域団体商標(トレー ドマーク)として再提出もしている。また、博多織は伝統的な和装への利用ばかりでなく、「HAKATAJAPAN」のトレードマークで洋服・バッグ・財布などの活用がされている。桂 由美の手による教皇ヨハネ ・パウロ2世の祭服にも博多織が用いられた。「博多町家ふるさと館」では博多織の手織り実演がなされている。毎年11月初旬に承天寺にて博多織の初作品評会「博多織求評会」が開催。