飾り山笠①

飾り山笠①

                       櫛 田 神 社                       

                       今、”博多祇園山笠”と呼ぶ。                

   福岡市博多区の年中行事で、毎年 7/1~7/15 迄、開催されている。700年以上の伝統ある祭事。櫛田神社に祀られるスサノオノミコト(素戔鳴尊)に対して、 奉納される祇園祭の一つ。櫛田神社祇園大祭。と正式には言う。 博多区主に、博多部(那珂川と御笠川(石堂川)間の区域)での7月行事。元来は、祇園祭の一つであ ったが、氏子の町内が始めた付け祭りが発展して行く中で、山笠と呼ばれる山車が登場するようになったため神社の祭りも含めて「博多祇園山笠」と呼ばれるようによ うになった。参加者や福岡市民などから「山笠」「ヤマ」とも略する。国の重要無形民俗文化財指定である。山笠の掛け声「おっしょい」は1996年(H.8年)に日本の音 風景100選に選ばれた。地域外の人達からは福岡市主催の祭りと誤解されがちだが、山笠は櫛田神社の氏子たちが行う奉納行事のひとつであり、地域住民たちが伝統的に 行ってきた町内行事である。山笠を担いで町内を回ることを山笠を・「舁く」(かく)と言い、担ぐ人のことを「舁き手」(かきて)と言うのだ。山笠期間中は行事参加 者の間ではキュウリを食べることが御法度となる。一番根強い説明として、「キュウリに切り口が櫛田神社の祇園宮の神紋と似ているから」と言う。櫛田神社や京都・八坂 神社などの”水天の祇園宮”の神紋の図柄は木瓜(ボケ)の花である。また、ずいぶん遠い昔は、「夏の旬のキュウリを断ってまで祭りに懸ける」と言う意気込みとの との説明もある。 博多祇園山笠の起源は諸説あって、その中でも、1241年(鎌倉時代)ここ博多で疫病が大流行した際、承天寺・開祖→聖一国師(円爾)が町民に担がれ た木製の施ガキ道棚に乗り水を撒きながら町を清めて回り疫病退散を祈祷したことを発祥とするのが通説。   

   安土桃山時代、島津氏と豊臣氏の戦により、博多の街は焼け野原となったが、秀吉の帰国の際、博多の街を幾つかの区画毎に「流」(ながれ)としてグループ 化し復興を行った(施策ー太閤割)。この「流」が博多祇園山笠のグループ単位の発祥。戦後の一時期13流に増えたこともあったが現在の「流れ」は恵比寿流、大黒流、 土井流、東流、西流、中州流、千代流の7流である(福神流は過去の不祥事が原因で不参加)。   


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                       櫛 田 神 社 に つ い て                       

   古くより、氏神・総鎮守として信仰を集めている神社。7月の山笠や、10月の博多おくんち祭事を行う。5月のどんたくは、厳密にはこのお社の祭りではない。松 囃子一行はここから出発するしきたりになっており。地元の人々は「お櫛田さん」との愛称である。   

   櫛田神社は全国には数カ所有り。主祭神が櫛名田姫であるが、ここ博多では、櫛名田姫は祀られていない。   

   社伝では、757年、松阪にあった櫛田神社を勧請した。941年、小野好古が藤原純友の乱を鎮めるために京都八坂神社に祈願し、平定後、スサノウの神を勧請したと の伝え有。他に所説がある。ここは、戦国時代は荒廃したが、1587年、豊臣秀吉によって博多が復興されるときに、現在の社殿が造営された。1868年、神仏分離令により 東長寺に属する神護寺が、櫛田神社を管理していた。1891年に、県社に列した。   


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第18番 山笠     表 標題     剛弓一箭 源 為朝     人形師 田中 比呂志

内 容     

     1156(保元一年)年、京都では崇徳上皇と後白河天皇の勢力争いが起こり、上皇側に源 為義・為朝、天皇方に源 義朝・平 清盛と分かれて衝突が起こりました。 為朝が守る西門に清盛の郎党=伊藤 景綱とその子 忠清、忠直が攻めてきた。為朝は「清盛でも役不足なのに、お前達では相手にならぬ」と叱咤しました。景綱は怒って「下郎 の矢が立つか立たぬか受けて見よ」と矢を放つが為朝はものともせず、「相手にならぬが、勇気をたたえて矢を一筋賜ろう。今生の面目、死後の思い出にせよ」と為朝が大矢を放つ と、矢は忠直の胸を貫き勢い余って後ろの忠清の鎧の袖の奥まで矢を突き刺さりました。一軍はあっと驚いて進むものはなく、清盛は恐れて撤退した。その後為朝の兄 義朝は郎党の 蒲田 政清に為朝を攻めさせるがかなわず逃げ出した。義朝は二百騎の軍勢を引き連れて進軍し、「この門を守る者は誰ぞ、我は源 義朝なり、大将軍の勅命を受けておる、我が源氏 の一族ならば、陣をひらいて退散せよ」大声を上げるが、為朝は「こちらは上皇の院宣を受けている」と言い通しました。義朝は「兄に向って矢を引いては神仏の憎しみを受けるぞ」 と言うと、源 為朝は、「では、父君の源 為義に弓を引くとは如何なることか」と言い返し、義朝は言葉に詰まってしまいました。この飾り山笠は弓の名手の為朝が1156年にて、上皇 方として戦局不利のなか勇猛果敢に戦う一場面のこと。     


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第18番        見送り 標題     神武東征 熊野譚     人形師 田中 勇

                            

     内 容     

     神倭伊波礼琵古命(後の神武天皇)は、初めて后の阿比良比売と共に日向国の高千穂宮に住んでいましたが、東方に日本国内を平定し治めるための都をつくろうと 兄弟たちと話し合い、大和国へ向かいました。しかし、その途中で大和の豪族の迎撃に会い、撤退を余儀なくされ、更に兄が戦死した。その死の間際にこの戦の敗因には、「我々 は日御子(天照大神の子孫)でありながら、日に向かって(東方向)戦ったことが悪かったのだ」言い残した。進路変更して、熊野から北上して日を背にして(西方向)へ進めて大和 へ軍を進めて行った。熊野の村に着いたとき、大きな熊が現れ、その毒気によって神熊野の住民が天照大神よりの剣を神倭伊波礼琵古命を助けるために下された剣を携えて現れ、この 剣を神倭伊波礼琵古命に献上したところ、たちまち目を覚まし、この剣によって熊野の荒ぶる神たちは自然と皆斬り倒されました。そして天照大神から使わされた八咫鳥の導きによって 吉野川の川尻に着き、そこから更に大和の宇陀の地へ進み、この地を支配する兄宇迦斯と弟宇迦斯という兄弟を従わせるために呼び寄せましたが、兄は来ずに弟だけが来ました。弟宇迦 斯は兄が神倭伊波礼琵古命を暗殺しようとしていることを知らせ、神倭伊波礼琵古命は部下にこれを討たせて、無事に、東征の軍を進めることができました。この飾り山笠は、神武天皇が 日本の国内を平定し、国を治めて初代天皇として即位する迄の神武東征の一場面であります。     


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