所在地 | 山号 | 宗派 | 本尊 | 創建年 | 開基 |
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京都市東山区清水1-294 | 音羽山 | 北法相宗 大本山 | 千手観音(秘仏) | (伝) 778年 | (伝) 延 鎮 |
札所 等 | 文化財 |
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西国三十三箇所16番、法然上人二十五霊跡13番、 神仏霊場巡拝の道117番(京都37番)、洛陽三十三所10~14番 | 本堂(国宝)、仁王門・三重塔・鐘楼ほか(重文)、世界遺産 |
参 道
東大路通りの清水道交差点から清水寺迄の約1.2kmの坂道を清水道と称され、道の両側には、観光客向けの ミヤゲ物店が軒を連ねている。かっての五条通りの延長である。---松原通りだ。その南、東山五条の交差点から 北東に上り、清水道に合流する五条坂も参詣道となっている。さらに五条坂の途中から分岐して清水寺仁王門付近に 達する清水新道(茶わん坂)もある。---茶わん坂は、一見閑静な坂で京焼・清水焼の発祥の地であって、毎年 10月4日が陶器の日で清水寺の境内には法要が営まれる。歴史的には、これらの参詣道が開けたのは近世以降のこと。 中世までは八坂の塔(法観寺)を経て三年坂を南方向に上り、経書堂のところで左(東)へ折れるルートが参詣道で あった。
清水寺は、法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺と共に、平安京遷都以前から所在して 歴史有り、京都でその数少ない寺院の一つ。また、石山寺、長谷寺などと並び有数の観音霊場で、一年中、 多くの旅行者が海外を問わず、また参詣者も多くここを訪れる所である。古都 京都の文化財としてユネスコ世界 遺産に登録されている。
草創縁起 : の大略のこと
778年、大和国 興福寺の僧で子島寺で修行していた 賢心(後に、延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向 かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地域ー音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源流を ただっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)と いう白衣の修行者が居た。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分は これから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、 行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まり。とかーーーー伝文。
仁王門と西門:境内入口に建つ朱塗りの門、三門一戸楼門で入母屋造檜皮葺きで、正面左右に仁王像を安置。 仁王門をくぐって小高い位置、1631年に建立、切妻造檜皮葺き、八脚門で特殊な形式。
西門の枝垂桜 それは見事なもの
三 重 塔
西門の先に建立するこの塔は、和様の塔の形式で、再建時、30.1mの高さ。1987年に 解体修理によって、外部の極彩色が復元されている。内部には、曼荼羅の密教世界が造 形されて、中央には、大日如来安置。但し、私はサーチしていないのだ。
( 鐘 楼 )
室町時代に造られ、1629年の大火をまぬがれた。
( 経 堂 )
三重塔の隣に建つ入母屋造、瓦葺きの五間堂。
( 田 村 堂 )
経堂の隣に建築されている、入母屋造、瓦葺きの三間堂で、別名「開山堂」と言う。1631年に再建、厨子内に 坂上 田村麻呂夫妻像を安置し、その向って左に行叡と延鎮の像を祀る。
いよいよ本堂へ続く通路。
( 本 堂 )
国宝 : 徳川 家光の寄進により、1633年に再建された建造物。「清水の舞台」とも呼ばれる、屋根 寄棟造、檜 皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突出し、外観に変化を与えている。建物の前半部は山の斜面にせり出す ように建てられ、多くの長大なケヤキの柱(139本)が「懸造(かけづくり)」の構造=「舞台造」:せり出し部分を支え ている。これを「清水の舞台」といい、観音菩薩は補陀洛山(ふだらくさん)に現出れるという、『法華経』「観世音 菩薩普門品」(観音経)の所説が有る。同じく、観音霊場である、長谷寺、石山寺の本堂も、ここと同様の「懸造」。 清水寺の本堂:内々陣には3基の厨子が安置され、中央には、千手観音立像、向って右には、毘沙門天立像、左は、 地蔵菩薩立像がそれぞれ安置。この三尊は秘仏。本尊厨子の左右、二十八部衆像を安置、内内陣左右端には、風神・雷神 が、安置。
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