4姉妹②

4姉妹②


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                       竹崎順子                       

この竹崎順子には、甥の徳富健次郎(後年:文学者・徳富蘆花)がいました。健次郎の青年時代のエピソードです。兄の蘇峰はすでに日本で一流の新聞記者として、その名声が全国に 知れわたる程であったとの対照的に、文学を志しても道は開けず、ひとり京都で人生に行き詰っていました。その上、一途な恋愛に敗れた健次郎は、京都を飛び出し熊本に帰ってきたかと 思うと、熊本を逃げ出し、さんざん放蕩を繰り返したあげく、鹿児島県から連れ戻されるという不名誉の帰郷をしたのでした。郷里の人々はもとより、近親者迄もが、「兄は天才、弟はクズ」 と冷たい眼で健次郎を迎えました。この時健次郎は、すでに自殺の思いを秘めていたのでした。絶望のどん底に追いつめられて帰郷した甥(健次郎)に対し、竹崎順子は「何の、よか、よか」 という言葉で、その失意の心を全面的に受け止めたのです。そして、失意の中に沈んでいる甥も自分も、「同じ翼の下にはぐくむもの」であるという大いなる人間愛を元に、甥を慰め、励ました。 後に、蘆花は、当時のことを「おばの愛の翼にはぐくまれ」て、「静かに心身の傷を養った」と振り返っています。蘆花は「われに三人の母あり」として、実母の徳富久子とともに、おば横井 つせ子と竹崎順子をあげて、彼にとっては、「心の母」であったのでしょう。愛のある言葉は、人の人生を大きく動かす力を持っています。           (注)     『ニューモラル』No.375 00,11.1 発行より  原文のまま コピー・ペー 


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                       徳富久子                       

 子供に、近代日本の言論人 徳富蘇峰、小説家 徳富蘆花 兄弟の母として、厳格な家庭教育を実践し、そして子供を育てていった人。兄 蘇峰は「私が一人前になり、強い信念が 持てたのも、母のおかげであった。」と感謝している。また、禁酒運動家でもある。 


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                      横井つせ子                       

 1856年(安政-3)、前妻ひさが病死したため、横井小楠48歳に時分、矢嶋つせ子、この時26歳、再婚。ところが小楠は、自分の機織りとして奉公していた寿加(36歳)を愛しtレしまい、 同じ家で夫1人、妻2人の奇妙な生活が始まります。つせ子夫人は、「夫は天下人である。妻たる自分をできるだけ学問をして、夫の名を辱めることがないように」励みます。また寿加は、 病弱のつせ子夫人を助け忍耐強く、思ったことをやり通す意志の強い女性でした。小楠が暗殺で亡くなると同時に、寿加はつせ子夫人にそれまで以上に仕えたのです。彼女は、下女になり、 姥になって働き、60年の生涯を横井家のために捧げ尽くしたのです。このように、小楠の妻つせ子と愛人寿加、この二人の女性は幕末の封建時代から明治の近代化への社会変化の中で、1人 の男性小楠への愛と献身は、現代の私たちにも考えさせられることが多いようです。 

 ところが、横井家とその妻矢嶋家と徳富家の三家に関わる女性達には、進歩的で傑出した人が多いようです。この三家の8人の女性が、日本の女性史の中で近代的先駆者達です。つせ子 夫人の4姉妹とは記載していますので、残りの4人は、 

 ◎ 徳富初子(徳富久子の娘)     婦人運動家・熊本洋学校にて日本初の男女共学を受ける   

 ◎ 徳富愛子(甥・蘆花の妻)     蘆花全集を出版   

 ◎ 横井玉子(甥・横井佐平太の妻)  楫子を支え、女子美術大学を創設   

 ◎ 海老名みや子 (小楠の娘)    熊本洋学校にて日本初の男女共学を受ける・キリスト教連合会長として活躍する。   

          (注)     (ふるさと寺子屋 No.29『横井小楠 2』) 講師:堀江 満(横井小楠記念館前館長)   原文のまま コピー・ペー     


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                       矢嶋楫子                       

 5女 かつは、学校などない当時に、一通り母から厳しく身につけさせられる。その上、もとより勝気であり、秘めたる情熱の持主だった。葉は亡き後は母親替りになって兄直方のために漬く す。直方も当時では婚期が遅い時代であったのであろうか、2男1女の林七郎(大金持)に後妻として嫁がせる。林も小楠の弟子だった。彼の人物評は、楫子自身も「この人は気品の高い、竹を割った ような人でした」と語っていた。しかし、だんだんと家族への乱暴と酒乱の悪癖に かつは、極度の疲労と半盲状態に陥り、かつ自身も3人の子まで儲けながら、このうえは、身の破滅と思い、末子 達子を連れ家出する。迎い来た使いの者に、見事に結い上げていた黒髪を根元からブッツリ切って紙に包み、無言の離縁を言い渡した。1868年(m-元)、これを転機に新しい一歩を踏み出す「新生 元年」ともなった。 

 その間、妹たちの間を転々とする。直方が病に倒れ、達子を置いて上京を決意。長崎発 東京行き蒸気船に乗り込み、船上にて自ら「楫子」と改名する。東京に居る兄は大参事(副知事)兼務 の左院議員で、神田の800坪の屋敷に書生、手伝いらはもとより千円という借金があった。楫子はその放漫財政を正し、3年で借金を片付ける。生来の向学心から教員伝習所に通うことになった。こ の頃、長姉 藤島もと子が息子2人と矢嶋糸子(直方の妻)も子供をつれて上京、兄宅は一気に賑やかになった。そうした中、楫子は妻子持ちの書生の間に、女児を宿す過ちを犯す。堕胎や父親に渡す べきだと言う姉の言葉を受け入れない。楫子は妙子と名付け、練馬の農家に預けて独身 下宿生活に戻る。 

 その折届いた兄 直方からの手紙で、熊本に残してきた林長子・林治定がキリスト教徒になったのを知り愕然とする。熊本洋学校生徒35名による花岡山キリスト教奉教同盟事件である。彼等だけ でなく、甥の横井時雄、徳富蘇峰、徳富蘆花も参加している。熊本洋学校は廃校になり、彼らの一部は、新島襄の同志社に入学し、熊本バンドと呼ばれることになるが、この熊本バンドは札幌バンド、 横浜バンドと並び日本におけるキリスト教の三大源流と言われている。 

 教え子の居宅で父親の酒害を目撃し、寂しさでタバコを覚えた楫子だったが、悩める楫子にとってもキリスト教はわが子の信じる宗教であり、遠い異国の宗教ではなくなった。自ら吸いかけの タバコによるぼや騒ぎを起こして、禁煙を決意、翌1879年(m-12)築地新栄教会で洗礼を受けた。ほゞ同時期に、3人の姉・徳冨久子、横井つせ子、竹崎順子も洗礼を受けている。 

 甥の徳富蘇峰は純粋がゆえに、楫子の洗礼に際して、「過去の過ち(1、幼いわが子置いて家を出たことと2、妻子ある人の子を産んだこと)」を告白すべきではないかとの手紙を送っている。 しかし、楫子は幼い妙子のことを考え、死ぬまで「過去の過ち」を公表することはなかった。