五足の靴

五足の靴

下田大橋バス停~下田南バス停(五人の文学者たちの足跡)

   与謝野 寛が北原 白秋、平野 万里、木下 杢太郎、吉井 勇(当時:学生)を連れて旅した記録・紀行文で、5名は1907/07/28~1907/08/末頃、九州を中心に各地を旅した。この旅行記は同年/08/07~09/10迄に、『東京二六新聞』連載された。

   5名は匿名、タイトルには「五人づれ」文中には、「K生」与謝野 寛、「M生」木下 杢太郎、「H生」北原 白秋、「B生」平野 万里、「I生」吉井 勇などの仮名を用いた。

   旅の記録は、この様に: 07/28 東京を夜行列車で出発. 07/29 車中泊. 07/30 厳島、下関市を見学、旅館 川卯に泊まる. の様に記録してある。

   そこで、「五足の靴」が天草下島の旅程は、八月八日~八月九日の記録。

   08/08  長崎から乗合馬車で茂木へ向かうーーー茂木港を11時出船、富岡港13時着ーーーその日は富岡泊。

   08/09  富岡から大江まで約32kmを徒歩で出発するーーー当時は海沿いの悪路であった、そこを歩き、下津 深江で昼食をとるーーー大江に到るーーー大江「高砂屋」泊

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文学遊歩道より

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西日が美しい

波静か
波静か

100年前を偲ぶ

険しい小径だった?
険しい小径だった?

1907/08/21:『東京二六新聞』

   タイトル 「蛇と蟇」

 富岡より八里の道を大江に向かふ。難道だと聞いた。天草島の西海岸を北より南へ、外海の波が噛みつくがりがりの石多き径に足を悩ましつつ行くのである。土痩せたる天草の島は稲を作るのに適せぬ、山の半腹の余裕なき余裕を求めて甘藷(かんしょ)を植える。島民は三食とも甘藷を食ふ。或る処は川が路である。点々たる石を伝ふって辛うじて進む。その多くは塁塁として砂礫尽くるなり荒礫左にそばたつ険山の裾を伝ふて行く。足早きK生M生はずんずん先へ行く。目的はパアテルさんを訪(おとな)うにある。足遅き人I生H生B生は休み休みゆっくり後から来る、目的は云うが如くんば歴史にあらず、考証に非ず、親しく途上に自然人事を見聞するにある。大岩にひびが入り象形文字の様に見ゆる断崖のもとを廻る処ではぐれてしまった。顧みれば淡く霞んで富岡半島がまだ見えた。三里か四里は来たらう。茶屋の婆(ばばあ)に婆さんの言葉はちっとも分らぬと云うと、あんたがたの云はっしゃる事も分かりまっせんと云った。婆さん子供があるかい。幾つだって大勢居るさあ。爺さんは居るのかね、爺さんは居らっさんば、一寸(ちっとん)楽しみも無けっかとで御座いますたい。とやったので皆吹出してしまった。歯抜け婆さんの愛きょうのある事よ。  暫く行くと先に立ったH生がぴたりと止まった。五尺余りの大きな紅き地に黒き斑を物凄く染め出した縞蛇が犬の頭ほどの蟇を呑みかけている。海岸を打つ波の音は白い、山を吹く風は青い、その間を縫う径の中央で蛇が蟇を呑む。三生(三人)暫くは呆れて眼を見張って突立った。人ありと知るや知らずや、蛇は長き体をうねうねうねらせて草の中へ引きずり込もうとする、蛙は弱いが重い、前足の一つを噛ませて硬く執って、動かぬ、或は既に死んだのか知れん。強者弱者を食ふ比ぶるものなき残忍なる行為だ。自然の一部にはまなじりをさいて呪うべきものがある。やはか許すべきと路傍(みちばた)の大石を天高く振りかざしたるI生は近づいた。やっと云うと蛇は砕けた、と思いの外どうも無い、打たれて痛かったのか暫くは動かぬ、今度は赤い舌をぺろぺろ吐いた、吐いた舌を従順なるガマの背に向けて食ひついた、くわっと怒ったI生この時他の石を拾った、今度はと思ったが失策った。あたったが死なぬ、するすると伸びてくさむらへ逃げ込んだ、そら来たと云ってI生は海の方へ逃げだした、B生もあわてて逃げだした、H生は後の始末を見届けて、何れも波打ち際に転がって居る石を渡って行く事にした。途中に小さい炭鉱があった。古ぼけたボイラーが破れた屋根の下で燻(いぶ)って居る。山の腹に穴を明けて石炭をえぐり出す。奥を見ると真っ暗な穴の入り口に裸の男が暑さうに寝ていた。暫く行くと道は山へ登る。シダが青々と一面に繁って温かき南の国の香を送る。脚下の白い波をたどると水平線が大分高まって居る。杉の木立が黒ずんで山麓を飾る、その間から紺碧の海が見え、涼風が吹く。汗は背、腹を洗ひ、頭から流れるものは眉を溢れて頬に伝ふ。水あれば水を飲み、茶あれば、茶を呼ぶ、今朝から平均一人五升も飲んだか、腹がだぶだぶする、胃はもう沢山だといふ。喉はもっと欲しいと促す、勝ちは常に喉に帰した。山のほうが路は楽である。峠を越す事二つ三つにして下津深江といふ湯の出る港へついた。午後二時。先着のK生M生が待って居た。農事講習会の災いする処となって茶屋も宿屋も断られ、大いに困って此処へ頼んだといふ瀟洒なる物売る家の二階に通る。老主人来る。すこぶるいんぎんである。一体この辺の言葉はとんと素人には分らぬ、それかあらぬか、老人は気を利かして一切土語(ドゴ)を語らぬ。「君達は」と口を開いた。これは最上の敬称代名詞の積もりと見える。「いづ方へ参られますか。」又云ふ「道は甚だしく険道でありまするとは雖も。」又云ふ「必ず似て参られまする、は、は。」その代わりよく分った。梅干しも奈良漬も甘かった。一睡して、大江迄もう四里、訳はないと、午後三時を過ぎる幾分に出かけた。