• POSTCARD XV
  • POST CARD Ⅲ

    POST CARD Ⅲ

    マルティン・ルター⇒宗教家
    Martin Luther、1483年アイズレーベンに生まれて、→1546年迄、宗教改革の創始者、聖アウグチノス修道会に属するドイツ人神学教授 で、人の姿となられた神の言葉としてのイエス・キリストにのみ従うことによって、信仰と思想において宗教改革という転換をもたらした。 キリスト教会の分裂(シスマ)はルター本来の意図ではなかったが、彼の影響下で福音主義教会(ルター派教会)とアウグスブルク信仰告白が形成。 宗教改革の中心人物となったことで、プロテスタント教会の源流を作った。聖書をキリスト教の唯一の源泉としようというルターの呼びかけで、 プロテスタント諸教会ばかりか、対抗改革を呼び起こしたというカトリックにも大影響を与える。ヨーロッパ文化、思想にも大きな足跡を残した。

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    マルティン・ルターの肖像
    ① 1533年頃 ② 油彩画、板 ③ ベルリン国立絵画館
    アルブレヒト・デューラー⇒ドイツの画家
    1471~1528年、ドイツのルネサンス期の画家・版画家・数学者、同名の父アルブレヒトはハンガリーからニュルンベルグに移住してきた金銀細工師。 幸運にもデューラーは自画像を多く残して20歳中頃には大変有名であった。このため彼の生涯は、多くの情報源により文書化されている。学校は2~3年程 で止めている。父親からの金細工と描写の基礎を学び始めた。息子に金細工のトレーニングを続けさせたかった。ヴォルゲムートによる(木版のイラストを 見習い)見習い勉強中、1484年に15歳で始めた描画において才能の片鱗を見せた。鉛筆デッサンで描かれた自画像は、後に「子ども時代」と記した、1484年作。 なお、ヴォルゲムートは当時ニュルンべルグにおいて、様々な芸術作品を作り出す巨大な作用場を有し、最先端の芸術家で、デューラーはその下で働いた。 この都市は、出版・高級品の貿易拠点として、重要な繁栄した都市で、アルプスを縦断して比較的近距離のヴェネツィアと大きなパイプがあった。彼は、見習い 期間が終わると、ドイツの習慣として、ギャップ・イヤー中に彼が、他地域で芸術家から技術を学ぶ遍歴の旅に約4年間を過ごした。始め2年間は、フランクフルト か、オランダと思われる1493年、ストラスプールに出ていた。

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    ヤーコプ・ムッフェルの肖像
    ① 1526年 ② 油彩画、板(カンヴァスに移替え) ③ ベルリン国立絵画館
    レンブラント・ファン・レイン⇒オランダの画家
    レンブラント・ファン・レイン(1606~1669)は、17Cを代表する画家。単にレンブラントと呼ばれている。大画面と明暗を画面上に強く押し出したルミニズム技法を 得意とし、「光の画家」「光の魔術師」(または「光と影の画家」「光と影の魔術師」)の異名を持つ。油彩だけでなく、エッチングや複合技法による銅版画やデッサン でも数多い作品を残した。生涯を通じて自画像を描いたことでも知られる。この自画像等はその時々の彼の内面までも伝えている。ヨーロッパ美術史を代表する重要な ひとり。若くして、肖像画家として成功。しかし、晩年には、私生活における度々の不幸と浪費癖による財政的苦難にあえぐ。それでもなお同時代において既に著名で あり、高い評価を受け続け、オランダに比類すべき画家がいないとさえ考えられた。  20C初頭 レンブラントの作品1000点が伝わっていたが、それらは常に真贋の疑問 が挟まれていた。1968年、オランダの応用科学研究機構が出資したレンブラント・リサーチ・プロジェクトが立ち上げられた。数々の作品をレンブラントの作だとする 信頼できる再評価を下すため、美術史家班は他分野の専門家からの協力を得て、最先端の技術診断を含む可能な限りの手段を用いて、彼の絵画を収めた新しいカタログ・ レゾネを完成させようとした。パネルの年輪時代学や他の物理・化学分析ではほとんど贋作判定不能、逆に18~19Cの絵ではと考えられていたのが17Cの絵だと判定したケース もあった。威力を発揮した手法はX線撮影によって下絵から書き進む段階を明瞭にし、それら図像学や美術史家によって、行われた分析だった。絵の具の塗り方にむらや不必要 な筆跡などが多く見られるものはレンブラント風を意図的に作ろうとしたものであったり、また、下書きがまだ乾かないうちに本塗りがされていたために不規則なヒビが入って いるものなどが贋作判定の例となった。これらを通じ、レンブラントの真作による絵画は300点に絞られた。ただし、判定には段階が設けられ、「真作の可能性高い」「真作の 可能性がある」「真作の可能性が低い」という評価がそれぞれ与えられている。

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    黄金の兜の男
    ① 1650~1655年頃 ②油彩画、カンヴァス ③ ベルリン国立絵画館
    ルーカ・ジョルダーノ⇒イタリア人画家
    彼(1634~1705)は、バロック後期のイタリア人画家であり、ナポリ派の巨匠であり、また、版画家としても知れれる。同時代ならびに後世の絵画に大きな影響を与えた。父(画 家 アントニオ・ジョルダーノ)の子としてナポリに生まれ、年少期にホセ・テ・リべーラに師事し、後にピエトロ・ダ・コルトーナのもとで働きはじめたといわれている。彼は「 速描きのルカ」と愛称が付いていた。それと言うのも、貧しく吝嗇な父から常に仕事に追い立てられており、「ルカ、もっと速く(描け)」と言われ続けていたことによる。まだ若かっ たので、父の要求に従順で、ありあわせのものを急いで食べなければならない時にも、絵筆を止めることは許されず、描き続けて彼の口に父が手で食べ物を押し込む程であった。ジョル ダーノの作品は仕上げる速さと、他人の目を欺けるほどまでに他の画家の作品を模倣できるような多才ぶりで、彼は「雷鳴」絵画の「プローテウス」というあだ名を付けられるまでになった    1700年にカルロス2世が死去すると、経済的にも成功したジョルダーノはナポリに帰ってくる。そうして、慈善事業に多額の金を使い、 特に貧しい年少の芸術家たちへの支援を惜しまなかった。彼は「優れた画家とは大衆に好かれる画家のことであり、そして大衆はデザインよりも色彩に惹かれるものである」という言葉。

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    エウクレイデス
    ① 1650~1653年頃 ② 油彩画、カンヴァス ③ ベルリン国立絵画館
    ティルマン・リーメンシュナイダー⇒ドイツの彫刻家
    彼はハイリゲンシュタット1462年に生まれる。1473年ストラスブールとウルム彫刻と木彫物を学びました。その時、彫刻家のギルドの法令は、獲得する多くの異なったワークショップへの 見習旅行が経験されるのを必要とした。

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    龍を退治する馬上の聖ゲオルギウス
    ① 1490年頃 ② 菩提樹材料 ③ ベルリン国立美術館彫刻コレクション
    ディエゴ・べラスケス⇒スペインの画家
    ディエゴ・べラスケス(1599~1660)はバロック期のスペインの画家で、マネが「画家の中の画家」と呼んだ。スペイン絵画の黄金期であった17Cを代表する巨匠で。セビリア生まれ、11歳に 当地の有力な画家であるフランシスコ・パチェーコに弟子入りした。18歳で独立、翌年(1618年)師匠の娘(ファナ)と結婚。17Cの此処では、厨房画と呼ばれる室内情景や静物を描いた絵画が多く 制作されたが、宮廷画家になる前は厨房画のジャンルに属する作品を描いていた。『卵を料理する老婆と少年』(1618年)などがその代表作。1622年には首都マドリードへと旅行した。1623年には、 国王フェリべ4世の肖像画を描き、国王に気に入られてフェリべ4世の付き人 宮廷画家となって以後30数年、国王や王女をはじめ宮廷の人々の肖像画が王宮や離宮を飾るための絵画を描いた。当時、画家 の身分は、「職人」の地位。フェリべ4世は彼に宮廷装飾の責任者を命じ、貴族、王の側近としての地位を与えた。  べラスケスの作品では、画面に近づいて見ると、素早い筆の運び、荒々しいタッチ にしか見えないものが少し離れた所から眺めると、写実的な衣服の襞に見える。このような、近代印象派にも通じる油彩画の卓越した技法がマネが高く評価した故。

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    3人の音楽家
    ① 1616~1620年頃 ② 油彩画、カンヴァス ③ ベルリン国立絵画館