幽霊・妖怪図

幽霊・妖怪画

おどろおどろしい and ユーモア

                    丸山 応挙について                         

   1733/06/12~1795/07/17に没す。江戸時代中期の絵師、近現代の京都画壇にまでその系統が続く「丸山派」の祖、 写生重視した親しみやすい。現在:京都府亀岡市になっている処、農家の二男として生まれてきた。10代の後半に家を出て、 狩野探幽の分派である鶴沢派の画家 幽汀の門に入っている。「写生」を重視で常に懐中に写生帳を入れて、暇さえあれば スケッチに余念がなかった。動物、昆虫、植物をいろいろ角度を変えながら客観的に描写していく。   

伝 丸山応挙 幽霊図 ①

伝 丸山応挙 幽霊図 ① 画風の特色は、「足のない幽霊」を描き始めた画家で、応挙の幽霊画が何故に有名かではなくて、問題は応挙の幽霊画が 実在かどうかである。それは、応挙直筆に間違いないと思われる作品を見たことが無し。発表された画集や論文でも、 直筆を見たという解答を得たことがない。応挙の幽霊図自体が幽霊的な存在。それでいて応挙の幽霊図は有名であって、 全く不思議な話である。それでも応挙筆と伝えられる幽霊図は何点か存在し、限りなく彼の直筆に近いものもある。   

伝 丸山応挙 幽霊図 ②

伝 丸山応挙 幽霊図 ② 幽霊図が全体的におどろおどろしさは全くなく、気品の良さを備えているのだそうです。表情が静かである故に一層怖い ところに応挙の幽霊図の本質を見出す。…以上、全生庵HPより。

渓斉英泉の幽霊図

渓斉英泉の幽霊図 渓斉英泉について、1790/01~1848/08/20 没 浮世絵師で、独自性の際立つ画家。退廃的なそして妖艶な美人画で知られ、 春画・好色本にも作品が多い。その一方で名所絵(風景画)も名が通っていた。この「幽霊図」はジャンルとしては日本 画の美人画に属すかな。

                    月岡 芳年について                         

   1839/04/30~1892/06/09 没。日本画の画家で幕末~明治初期の活躍じた浮世絵師でもある。ジャンルは歴史絵、 美人画、役者絵、風俗画、古典が、合戦絵など多種多様。一方、衝撃的な無惨絵の描き手として有名な人だから「血まみれ 芳年」とも言われていた。陰惨な場面を好んで描く絵師というイメージが勝って、一般的な人気は出ないとろがあった。  

和漢百物語 清姫

和漢百物語 清姫 1865年の27才の時に、月岡雪斉(祖父の弟)の画姓を継承する。シリーズもの、歴史絵、合戦絵等を多数発表している。 この年の浮世絵師番付で第十位となる。この作品は彼の第Ⅱ期にあたる。1865年~1869年の間の作品の一つ。    清姫にインタビュー(妖怪ストーカー)をする。 インタビュー? 待ってよ。こっちから聞きたいことがあるの。あなた、安珍(あんちん)っていうお坊さん、見なかった ?ねえー、どこ行ったか知らない?若くてイケメンのお坊さんよ。あたしは清姫。お坊さんの彼女よ。約束をすっぽかされ たかわいそうな彼女なの。ほんとに知らない?ウソついたら承知しないわよ。あたし、もう完全にキレてるんだから。顔を 見たら分かる?そうでしょ、あたし、泳げないじゃない。だから、この日高川だって、ヘビになって渡ってきたんだから。 えっ?道成寺っていうお寺に行った?ありがと。あなた、命びろいしたわね。いえ、何でもないわ。インタビューはまたあと でね。さぁてと、安珍さまーっ!殺すっーっ!   

                     歌川国芳について                            

   1798/01/01~1861/04/14 没、江戸時代末期の浮世絵師:画想の豊かさ、斬新なデザイン力、アイディアに富む=奇想天外 、確実なデッサン力。浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力ある数多い作品である。   

   国芳45才の時、老中水野忠邦の天保の改革で、質素倹約、風紀粛清の号令下、浮世絵、美人画、役者絵が禁止となった。 この為政者の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子でもある国芳は、自分の浮世絵の中で持って、精一杯の皮肉をぶっつけ たのである。1843年『源頼光館土蜘蛛作妖怪図』は内容の裏側には、実は、国家緊急の時に惰眠をむさぼっていると批判が込められ ている。主君(徳川将軍)が危機だと言うのにソッポを向く、卜部季武とみせかけの天保の改革の老中水野忠邦のこと。また、小物類 ・着衣・家紋・模様からこの時代の中心人物を指している。そして絵の中の奥にはユーモラスな妖怪たちがいるが、実は天保の改革 の被害者たちだ。富くじが禁止された富くじ妖怪、歯のないろくろく首には歯なし→噺など寄席の禁止を恨んだもの、絵のいたる所 に隠されている。悪政に対する強烈な風刺が込められている。江戸市井の人々は謎を解いて、溜飲を下げて大喜びをした。それで幕 府は国芳を要注意人物と徹底的にマークした。奉行所に何回も呼び出された。尋問を受けたり罰金を取られたりした。当然始末書も 書かされている。それでも国芳の筆は止らず、禁止の網をかいくぐりながら、幕府風刺を止めなかったので町人の喝采を浴びた。彼 はヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。やがて水野の失脚となって国芳は待ってましたとばかりに江戸人の度肝を抜く武者絵 を世間に送り出した。『宮本武蔵と巨鯨』ー浮世絵3枚分相当:このことは武蔵の強さを表現するのに相手が人間では物足りない。 桁違いの鯨と戦わせることでヒーローの強さを伝え、この画像を絶賛した声が満ち溢れた。   

相馬の古内裏

相馬の古内裏 巨大な骸骨は西洋の解剖学の書物の研究成果だ。場所の設定は、下総国相馬 かって平 将門が築いた内裏の廃屋としている。将門の 娘・滝夜叉姫は、亡き父の遺志を継ぎ、兵を集め、滝夜叉姫はやがて妖怪を操るようになった。そこで、滝夜叉姫を討伐しにやって きたのは、源 頼信の家臣 大宅太郎光国だ。いざ対決、滝夜叉姫を守ろうとする荒井丸をねじ伏せたと思いきや、滝夜叉姫が呼び 出したのはなんと巨大な骸骨だった!さあどうする。大宅太郎光国! 画面全体を覆う骸骨の異様さ、異界を思わせる闇ーーー「善知安方忠義伝」という読本から材をとった先品ですが、もともとのスト ーリーでは、人間大のの無数の骸骨が襲いかかるところを国芳は巨大骸骨一体で表現しています。   

                       佐脇嵩之について                              

   1707年に生まれ1772/07/31 没。晩年の英 一蝶について学び、師の風俗画の作風をよく守って後世に伝えた。   

火車

火車 悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本妖怪のこと。これはまた、葬式や墓場から死体を奪う妖怪で、伝承地は不特定 である。その正体は猫の妖怪、全国に事例がある。年老いた猫がこの妖怪に変化し、猫又が正体だともいう。火車から亡骸を守る方法も 2,3通りある。 甲府市富士河口湖町で、火車が住むといわれる付近の寺では葬式を2回に分けて行い、最初の葬式には棺桶に石を詰めておき、火車に 亡骸を奪われるのを防ぐこともあった。 八幡浜市では、棺桶の上に髪刺しを置くと、火車に亡骸を奪われない。 宮崎県美郷町は出棺の前に「バクには食わせん」「火車には食わせん」と2回唱える。 岡山県新見市では妙八(和楽器)を叩くと火車を避けられる。

野狐

野狐 九州地方に伝わるキツネの憑き物を称して「ヤコつき」という。ネズミより少し大きい姿をしていて、ネコより小さいとされ、本来の野 狐は目に見えない。平戸市では、「ヤコの千匹連れ」という言葉があり、これは野狐が大勢連れ立って歩くこと。イタチに類似、人の脇 の下に潜むとその人はヤコオに憑かれる。火傷の傷跡、疱瘡を嘗められると死ぬ。その病を患者は寄せ付けないため、蚊帳の中に入り、 周囲に麻殻の灰とか、刀剣を置いて、中に侵入することを防止する。 日本においては、狐霊には、野狐と野良狐と善狐という善良狐の二種、野狐で人に悪さをしないものと、善狐で不良性のものもいる。玉藻 前に化けた白金全毛九尾の狐は、野狐の中でも人に危害を与える妖怪狐として知られ、悪い狐である。それ故に、九尾の狐を悪狐と呼ぶ場 合もあり、善狐でも尻尾が9本あれば九尾の狐なのだ。

猫又

猫又 猫又の「又」は尾が二又に分かれていることが語源である。ネコは眼光や不思議な習性により、古来から魔性のもの、葬儀場で、死者を 甦らせたり、ネコを殺すと7代まで祟られるなど恐れられ、そうした俗信が背景となって猫又の伝説がうまれた。肉食性のネコは腐臭を 嗅ぎわける能力に長け、死体に近づく習性があったためと考えられており、っこうした俗信が基で死者の亡骸を奪う妖怪・火車と猫又 が同一視されることもある。 「百怪図巻」1737年刊行:コレニヨルト 人間女性の身なりをした猫又が三味線を奏でている姿が描かれているが、当時は三味線の素材に 雌のネコの皮が多く用いられていたため、猫又は三味線を奏でる同族を哀れむ歌を歌っている。もしくは一種の皮肉などと解されている。 芸者の服装をしているのは、かって芸者がネコと呼ばれたことと関連している見方もある。