飾り山笠③

飾り山笠③


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                    表 標題 : 賤ヶ岳之大決戦                         


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                       人形師 置鮎 正弘                       

 賤ヶ岳における加藤清正、山路将監の相打ち。賤ヶ岳において「加藤清正一番槍」と名乗り、片鎌の大身の槍をひっさげ、清正は群がる敵の真っ只中に、あたる敵を次々と突きま くったため討たれる者数知れず、清正は敵の首級を藤蔓に結びつけ、敵将を物色中、清水口に敵の猛将山路将監を見つけ出し、敵として不足なし、「将監いざ参れ」と槍を捻って繰出せ ば、将監もさるもの互に虚虚実実の秘術を尽くしたが、勝敗は決しない。豪気な清正が「えい面倒なリ」と槍を打ち捨て将監に組み付き揉み合う中、清正の兜が躑躅の大株にひっかかる。 あわや将鑑逃げようとしたが、清正首が斬れるか兜がとれるか運は試しと逃げる将監に組付いたその時、清正の兜の緒が切れた。上になり、下になり、組み付きながら谷間に落ち、尚も 必死の組打ちに清正の力が将監に勝った。遂に清正は将監の首を落とし、功名を挙げました。 

 首級とは中国の戦国時代、秦の法で、敵の首を一つとると階級が上がったところから、討ち取った首のこと。 


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                       賤ヶ岳の合戦                       

 1583/03/12(天正-11・5・3)柴田勝家は、前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて、近江国 柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。滝川一益が篭る長島城を包囲していた秀吉は 織田信雄と蒲生郷の1万強の軍勢を伊勢に残し、1583/03/19(5・10)には5万の兵力を率いて木之本に布陣。双方直ちに攻撃を打って出ることはせず、しばらくは、陣地や砦を盛んに構築 した(遺構がある程度、現在も残る)。また丹波長秀や勝家の西進に備え海津と敦賀に兵を出した。戦線は膠着し、1583/03/22(5・13)秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢 と近江の2方面に備えた。秀吉から秀長に「(自軍の)砦周辺の小屋は前野長康、黒田官兵衛、林隼人の部隊が手伝って壊すべきこと」と1583/03/30付けの書状が送られたが、この命令は 実行されていない。1583/04/16(6・6)、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢に居る一益と再び挙兵、岐阜城下へ進出した。ここに来て、近江、伊勢、美濃の3方面作戦を張られた秀吉 は、翌04/17(6・7)美濃に進軍するも、揖斐川の氾濫により大垣城に入った。秀吉の軍勢の多くが、近江から離れたのをチャンスと見た勝家は、部将・佐久間盛政の意見具申もあり、1583/04 /19(6・9)盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが耐え切れず陥落、中川は討死。続いて黒田官兵衛の部隊が盛政の攻撃を受けることとなったが、 奮戦し守り抜いた。盛政はさらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれず退却し、木之本の秀吉の所に逃れた。この成果を得て勝家は盛政に撤退命令を下したが、再三の命令 にも従わず、前線に軍勢を置き続けた。1583/04/20(6・10)、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将である桑山重晴も撤退を開始する。これにより盛政が賤ヶ岳を占拠するのも時間の問題かと 思われた。しかし、その頃、時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた長秀が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうもチャンスは今を置いて他に無いと判断した、進路を変更 して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。長秀率いる2000人の軍勢は、撤退を開始していた重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政軍勢を 撃破し間一髪の所で、賤ヶ岳砦の確保に成功する。更に、同日、大垣城に居た、秀吉は、大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は木之本までの丘陵地帯 を含む52kmを僅か5時間で移動した。この急激な行軍速度を成功させた理由は諸説あるが、あらかじめ沿道に松明を点け、さらに食事の補給箇所も用意させたという。僅かな時間で帰還した秀吉 の大軍に驚いた盛政は、同深夜に撤退を開始するものの、1583/04/21(6・11)の未明に秀吉らの大軍に強襲された。盛政軍は奮闘、更に勝家の救援あり、撤収に成功、その為、攻撃対象を勝家に 変えて、この勝家軍に盛政が逆に救援し、両軍は激戦となった。ところがこの最中、茂山に布陣していた勝家側の前田利家の軍勢が突如戦線離脱した。(理由):利家は秀吉とは信長の部下時代 から親友であったが、勝家とは主従関係にあったこと、この相関関係に耐えきれなかったことが一番有力説である。このため利家に対峙していた軍勢が勝家勢への攻撃に加わった。さらに勝家 側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、盛政軍を撃破した秀吉の軍勢は勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況に支えきれず、勝家の軍勢は総崩れし、終に、勝家は越前・北ノ庄城に 向けて退却した。 


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                   見送り表題 : 大宰府花咲筑紫万葉                       


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                       人形師 小嶋 慎一                        

 天平二(730)年正月十三日に大宰府の師 大伴旅人邸にて、梅の花を題材にした歌会「梅花の宴」が催されました。大宰府の官人たち、また筑前守 山上憶良をはじめ、管内九国三島 のうちから国司たちが集いました。大宰府に渡来し、奈良の都へ伝わると貴族たちに珍重されました。また、今と違い当時は白梅だけでした。この喜びで詠まれた三十二首の歌は万葉集五に 収められています。 


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                       大伴旅人 梅花の宴(万葉集を詠む)                       

 大伴卿の宅に宴して詠める梅の歌三十二首、また序には、旅人の中国趣味が現われているとされる。だが、旅人らは漢詩ではなく、和歌を以て春の情緒を詠んだ。高官たちであるから、 漢詩を詠むだけの教養を持った者もいたであろう。そこを敢えて和歌にしたのは、この国の風景をこの国の言葉によって述べようという、強い意志が働いたためだったかも知れない。 出席者の中には、小野老、山上憶良、笠沙弥らの和歌も見える。一番光っているのは、憶良の歌ではないだろうか、「春さればまづ咲く屋戸の梅の花独り見つつや春日暮らさむ」という一首 には、2年前に妻を失った旅人への、それとない心遣いが現れている。小野老の「梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも」は、眼前の梅の花の見事さを、さりげなく歌っ て面白い趣向である。また、小野老は、大宰府着任直後、奈良の都を懐かしんで、次のような歌を歌った人である。「青丹よし奈良の都は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり」の御人だ 。これらの歌を一つづつ読んでいくと、万葉の時代における、普通の人びとの感性が伝わってくるようだ。もう一つ、大伴旅人(主人)の詠んだ和歌:「我が園に梅の花散る久かたの天より雪 の流れ来るかも」と。


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                       資 料                       


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