熊本城

熊本城

                       隈 本 城                       

 現在の熊本城は茶臼山という丘陵地に1601~1607年(慶長 6~12)にかけて加藤 清正が築いた城。この一帯には、中世城が存在していた。それゆえ、茶臼山は肥後の要と言える処。 記録には、最古の城⇒千葉城 1467~1469年(応仁年間)に茶臼山の東端に位置、出田 秀信城主(菊池一族)。1496年(明応 5)鹿子木 親員(寂心)が茶臼山南西麓⇒今、古城附近。「隈 本城」。1550年(天文 19)、城 親冬が隈本城入りする。そして、秀吉の九州平定により佐々 成政が領主として肥後入国、検地の強行などにより、国衆一揆を引き起こし、成政は切腹した。 1588年(天正 16)肥後は北半分を加藤 清正に、南半分を小西 行長に分け与えられた。この時、清正の居城としたもので、まだ、隈本城でした。 

                       加 藤 清 正                       

 賤ケ岳の戦いでは「七本槍」の1人に数えられ、その後も数々の武功を立てた。1588年(天正 16)、侍大将から肥後北半分19万5000石の領主に任命される。当時27歳。1587年に佐々成政 が統治失敗した後を受けたもの。入国当時の肥後は国衆と呼ばれる土豪がひしめき、難治の国で、しかも長引く戦乱で肥後国内は荒れ果てていた。この当時、肥後を訪れた宣教師が「これほど貧 しい国を見たことがない」と書き残している程。清正は、治山治水、新田開発などに力を入れ、また、南蛮貿易に乗り出すなど、積極的に領地経営を進め、国はどんどん豊かになり、結果領民か ら神様のように慕われるようになりました。現在でも、熊本では、善政の事跡は全て「せいしょこさんのさしたこつ」となる。 

 文禄・慶長の役の主力として、7年間戦い続け、秀吉の死後、起きた関ヶ原の合戦では、石田 三成、小西 行長との確執から東軍につき、小西滅亡がは肥後南半分も領地とし、実質共54万石 の大大名となります。関ヶ原で東軍についたとはいえ、豊臣家に対する清正の想いは並大抵のものでなく、1611年(慶長 16)、二条城で、秀頼(秀吉の遺児)と家康を会見に成功した。これで、 豊臣家も安泰と思われたのですが、二条城の会見から熊本に帰る船中で発病し、熊本城で亡くなりました。享年50歳、奇しくも生まれた日と同じ6月24日でした。豊臣家は清正没後わずか4年で大坂 夏の陣で敗れてしまいます。清正の菩提寺 本妙寺では、7月23~24日に頓写会と呼ばれる法要が行われ、多くの参拝客で賑います。 

                       熊本城・大天守                       

 大天守は3重6階地下1階、「一の天守」。隣の小天守は3重4階地下1階、「二の天守」=「御上(おうえ)」という夫人のためのもの。大天守は一般に5重の天守として見られているが、2重 目にあたる部分と4重にあたる部分のものは屋根ではなく庇とするので、正確には3重6階地下1階の天守だ。天守台から少し張り出す「張出造」で、この部分は、石落としが設置。因みに、城の北東 に清正が建立した豊国廟跡(立田山中腹)と、城の南西の妙解寺跡(花岡山麓)にある細川家の霊廟の2つを結ぶ直線上に天守がある。 

 大天守が1601年竣工し、10年後、文禄・慶長の役で中断し、後に増築している。1594年頃のプランでは、櫓が重なり合って景観のバランスが悪い、それで、現在位置に変更され、細部でも意 匠が異なっている。 


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                       熊本城 本丸御殿                       

 熊本城は、畳数1570畳、部屋数53もある建築群でした。その中でもひときわ大きい建物が本丸御殿大広間で、ここは藩主の居間として使われたり、部下と対面する場所でありました。 大広間には沢山の部屋がありましたが、中でも、一番格式の高い部屋が「昭君の間」と呼ばれる部屋です。この部屋には漢(中国の時代)時代のお話で、胡の国に送られた絶世の美女、王 昭君の物語が描かれていました。 

 「昭君の間」=「将軍の間」の隠語である説も有り。清正は秀吉子飼いの武将なのだ。秀頼に万が一のときは、熊本城に秀頼を迎え入れ、西軍武将を率いて徳川に背く覚悟があり、その ための部屋が「昭君の間」ということ。 

 抜け穴 伝説 : 本丸御殿の建設に携わった大工の棟梁 善蔵が語った「大工善蔵より聞覚控」という古文書が残されていた。 それには、「昭君の間」のうしろに機密の間があったこつも 覚えとる。壁がめぐる仕掛けで、かべが一ちようきりつめると、ゆかの高さ六尺ばかりのところから、細かなはしごで下におりって、女の髪の毛でねりあわせたつなにすがって下におり、それか らつまるところは、ふじょう御門からあずき坂にでるやうになっておった。」--全て熊本弁で書かれているのですが、つまり「昭君の間」の後ろの壁が回り、床下の通路にはしごと縄で下りれ ば、そのまま門をくぐって場外へ出られるようになっていた。」そうです(伝文)。そのほかにも鶯張りの廊下の話なども残っており、格式の高さと共に、謎の多い建物でありました。 

                       細 川 忠 利                       

 加藤 忠広(清正の子)が改易された後に肥後入国したのが、小倉城主の細川忠利。祖父は文化人であった藤孝(幽斉)、父は戦国武将だった忠興(三斉)。母は、光秀の娘 がラシャ。 細川は、信長、秀吉、家康に仕えて乱世を上手くくぐり抜け、丹波、豊前と国替えを重ねて熊本城の藩主に。彼が、一番気を使ったのが、加藤家に礼を尽くすこと、国入りした時、先頭には、 清正の位牌を掲げ、入城する際は大手門にむかずき、天守に登って清正の眠る本妙寺に向かい頭を下げたとの伝。こういった気遣いは、細川家代々に伝承し、自分の行績や事跡も 「清正公のおカゲ」としたこともあった様。この辺からも清正人気があるのかも。 

 親譲りの文化人。その上、武道に秀でた人。天草・島原の乱にては、忠利指揮の基、細川藩が原城本丸を一番乗りを果たしてた。その上、晩年は宮本 武蔵を客分として迎え入れる。 

                       細川九曜紋                       

 デザイン(現在のものに変更)にまつわる細川家家紋の秘話。これは、1747/08/15(延享 4)午前8時頃、江戸城本丸大広間の縁側に血まみれの男が倒れているのが発見された。虫の息 であったが、「細川越中」と名乗り、翌日逝去。犯人の板倉修理は直ぐに捕えられ、後に切腹、お家断絶となる。この事件は江戸城中での記録に残る刃傷事件7件の内の1件で、殺されたのは 細川家第7代細川宗孝でした。犯人の板倉勝該は7000石の旗本で、板倉本家の板倉勝清に恨みを抱き、殺害しようと江戸城中で刃傷に及んだのです。ところが薄暗い城中のこと、細川家の九曜紋 を板倉の「巴九曜」と見間違え、人違いの宗孝に切りかかり、殺害してしまったのです。もちろん細川家にはお咎めは全くありません。しかし、藩主が江戸城内でで殺害されるという前代未聞の 出来事ですので、幕府は憂慮し、細川家に家紋のデザインを変更するように命じた。これが現在の細川九曜といわれる家紋です。また、再び間違われないように、羽織に付ける紋の数を、普通 5ヶ所のところ7ヶ所に付けるようになった。 

 

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