2001年に始まって以来、13年目を迎える飯塚市を代表するイベントとして知られる「雛(ひいな)のまつり」が今年も開催されている。「有職びな」から
人形を飾るスペースがないようなところに、質素な「懸け軸びな」までさまざまな「雛様」の紹介がされている。ここ大浦荘もそれらを公開しているのです。大
浦荘は麻生グループの創業者麻生太吉の長男太右衛門の住宅として建築されました。柏の森の麻生本家を中心に、山内(山内炭坑のあった)入口の場所に「中島邸」
(麻生太吉の養子麻生五郎の住宅)、熊野神社下の「立岩邸」(麻生太七郎監査役の住宅)、柏の森広畑の「麻生屋」(麻生太三郎専務の住宅)などがあり、何れも
和風入母屋書院造りの数寄を凝らした住宅である。大浦荘もその一つですが、元来、個人住宅として建てられたもののため、社内にその建築に関するデータは一切
残ってなく建築年次も不明ですが、残された資料や建物に残された銘などから1924年(t-13)には完成したと思われます。また、「大浦」は旧立岩村の小字名です。
建築材料には、桧、・杉材が主として使われ、柱は「四方柾」と称されるもので、四面に柾目があり、一本の原木から数本しか取れないため非常に高価なものであり、
現在ではそのような贅沢な製材はされていない。廊下に畳を敷きつめる方式も大邸宅に見られる特徴であり、麻生本家もそのようになっているが大きな宴会場やホテル
などがなかった明治・大正時代、社員を多く集めての新年宴会や園遊会等では廊下も会場の一部として使われたものと思われます。欄間にも高級材に精微な細工がなされており
贅沢を尽くした。玄関前の車よせにこんもりとした木々がある、これも麻生系住宅の特徴で、-大浦荘のものは”山桃””金木犀””銀木犀”である。また庭園の背景となっている
柏の森の樹木は自然の森のものでなく、造園によって植樹がされたそうだ。とくに麻生太吉がつつじを愛好したため、麻生本家もそうですが、大浦荘にもつつじが多く見られます。
内部の部屋 玄関に入ってすぐ右手に洋間がありますが、応接間として使用されたもので、このような書院造りを基調とした洋広間のあり方は明治期の大邸宅の代表的な
スタイルとされている。戦時中から戦後しばらくの間は麻生太賀吉前会長の弟、麻生典太専務の住宅でしたが1952~1953年(s-27~s-28)ごろ、典太さんの福岡市転出と麻生本社前に
在ったクラブ(二階建て和風建築)の取り壊しを受けて、会社のクラブとなり、来客の接待、社内各部各課の会合、新年の謡曲仕舞い大会や社内俳句会の会場などに使用されつつ今日
に至っている。そうしてなお、1945~1950年頃は、遊休住宅に対する行政指導で社員寮として使われており、これは麻生本家も同様でした。 |