POST CARD Ⅴ

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円山 応挙:

円山 応挙(1733~1795):江戸時代中期の画家。円山四条派の祖。丹波国穴太村(京都府亀岡市)の生まれ。号は夏雲・仙嶺等。初名は岩次郎。 1766年(明和 3)に、応挙(まさたか)と改名、以後没年までこれを用いるが、俗に応挙(おうきょ)と呼ばれる。15歳で京都の石田 幽汀の門に入り狩野 派の画技を修得する。同時に眼鏡絵の制作にも従事、西洋的遠近法を学び、やがて実証主義的精神のもとに写生重視の絵を画くようになっていく。また 来朝した清国の画家 沈 南頻や雲谷派の影響を受け、これらを融合し、平明で親しみやすい装飾様式を完成させた。門下からは長沢 芦雪、呉 春等、 名立たる画家を輩出しており、相国寺にも作品を多く残している。


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牡丹孔雀図
華麗な羽を広げた雌雄の孔雀、仏を守護する鳥ともいわれる。「富貴草」の異名を持ち、花の王とされる牡丹。奇怪な形の太潮石。中国への憧憬を思い 起させる。日本に孔雀は生息しないが、江戸時代京都四条河原の見せ物市に出されていたことがあり、応挙の目にも触れたであろう。羽の部分も繊細綿密に 表わしている。応挙写生画の逸品。

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薔薇文鳥図
金地の画面に、薄紅色の薔薇と鮮やかな緑色の葉。枝にとまる番いの文鳥。空間が大きくとられており、実際に目の前にいるような立体感がある。

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朝顔狗子図
作 円山 応瑞(1766~1829)は、応挙の子息で円山派の画家。応挙自身が写生画に子犬をよく使った題材が多かった。この図様も父 応挙から受け継いだもの。 柔らかな筆使いで、輪郭の子犬の毛を描き、少ない筆数で巧みに子犬の愛らしいポーズと体躯を描き表している。まさに生き物に対する慈しみの心が溢れるよう である。

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海浪群鶴図屏風(右隻)
鶴は古来より長寿の生き物として尊ばれる。浜辺で翼を休める丹頂鶴の一群。冲を見つめ、次に渡る国に思いを!首を垂れ疲れを癒しているのか。 鶴の白黒赤の清楚な姿は古来より画題によく使用。

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敲氷煮茗図
敲は「たたく」の意味。太白山(中国陜西省)の山中で隠者王休が渓流に張った氷を割って、茶の湯を煮、客と喫しながら清談を重ねた、という故事が題材。王休 敷物の上に座し、賓客は琴と巻物を傍らに置く。これから琴を奏で、書画を愛でるのであろう。槌を握り氷を割る道士と、二人の真剣な眼差しが印象的。応挙は中国の 文人趣味を好んで画題にしている。1780年(安永 9)、彼の48歳の作。

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白象唐子図屏風(右隻)
長沢 芦雪(1754~1799)は京都山城、淀藩士 上杉和左衛の子。応挙に師事し、機知溢れる鋭い個性派表現を出す画家で、門下にて一人異彩を放った。<内容>唐子と象の 組合せ。背中に乗る者、頭をこする者、鼻にさわる者、手をさわる、尻尾を、唐子の表情は皆楽しそう。象も心地良いのか、くだけた表情を示し。象は古来より仏教説話に はよく登場。古代インドで、盲目の人たちが各自象に触ったと言う。すると、足、尻尾、腹、耳と触った人々がそれぞれ別々の感想を述べた。各自が象の体の一部を触った のだった。それが、象の体そのものと認識してしまったのだ。これには、仏教の真理を唱えている。「一部分だけの見解ではいけない。真理を会得するためには、全てを観 なければならない。」との仏教の教え。どうもこれに画材を得たようである。

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大瀑布図
円満院の庭に滝が無いこと惜しんだ祐常門主の依頼により、応挙が描いた図。この軸は全長4.2mもあり、実際に境内の庭に掛けられたといわれる。切り立った岩にしぶきが 掛かる。滝つぼの泡と渦巻き。実に臨場感にあふれている。この軸を円満院の床の間に掛けると、ちょうど滝壺付近から直角に曲がり、実際の滝を眺めているように見えた、と言う。

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七難七福図巻⇒福寿巻(還暦祝いの図)
貴人の還暦の宴。酒肴と祝いの品々、家族に囲まれ喜びもひとしお。

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七難七福図巻⇒福寿巻(豊作・年貢米納めの図)
豊作であったのであろう、百姓が米を計って運んでいる。喜びに満ちた百姓の顔姿と代官所の役人が、実際その場にいるが如くに描かれている。

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七難七福図巻⇒天災巻(大火の図)
地震や風水害、突然の天変地異は、この世の全てを押し流してしまう。火事はあっという間に、何もかも焼き尽くす。なすすべも無く逃げ惑う人々。この世に生を受けた者は、何人 たりともこの難から逃れる事はできない。ただ々神仏に祈るしかない。     応挙が近江の円満院(滋賀県大津市)の祐常門主の依頼によって描いた全長15m全3巻に及ぶ大作。世の中 の様々「難」(天災・人災)と「福」を真迫感を抱く。1768年(明和 5) 応挙36歳の渾身の力作。