宮崎兄弟の生家

宮崎兄弟の生家

自由と平等を愛する精神の兄弟ら

生家
生家は、揺れ動いてやまない近代日本の在り方に全身で立ち向かった兄弟の生の軌跡を振り返るとともに、中国革命と孫文に 関わるさまざまな資料にふれる事ができる施設。日中の平和と友好のために、またアジアと日本の交流のさきがけの地として、 国内外から注目されています。 1973/08/27 熊本県指定史跡

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滔天(孫文を助け、革命に挺身した侠の人)
寅蔵:八男(1871~1922)は大江義塾から早稲田、そして長崎カブリ校と多感な青春遍歴ののち、弥蔵の説く革命的アジア主義に共感 した彼は、1892(m.25)年に上海の土を踏んだ。そして弥蔵の死のあと、理想を同じくする孫文との出会いに導かれた滔天は、1897年に孫 文を秋には宮崎家に招き、それ以外に、中国大陸における革命運動を援助、池袋で亡命してきた孫文や蒋介石を援助。一旦、運動に挫折 した。自分を見つめ直す意図で、浪曲家・桃中軒雲右衛門に弟子入りし、→桃中軒牛右衛門の名で浪曲師となる。だが、革命の志を捨て てはいなかった。1905(m.38)年、孫文らと東京で革命運動団体「中国同盟会」を結成:すなわち、7月に孫文と黄興の手を握らせ、8月 には留学生を中心に会を結成させた。滔天は孫文だけでなく、朝鮮開化党の志士・金玉均の亡命を支援しているが、彼は、上海で暗殺、 その後、頭髪と衣服の一部を持ち込み、日本人有志で浅草本願寺で葬儀をおこなった。→義理人情に溢れた人物だった。滔天の事には、 1893年、政変において香港に居た、康 有為を伴って、帰朝し、朝鮮の間を斡旋し、1899(m.32)年の米比戦争に参画するところがあった。 哥老会・三合会・興中会の3派の大同団結。1900(m33)年、恵州義軍が革命の反旗をひるがえすと、シンガポールにいた康 有為を動かして 孫文と提携させようと謀略をおこなった。だが滔天を刺客と疑われて、追放命令を受け、香港へ、そこでも追放令を受け、船中にて、孫 逸仙と密議をこらしたが、日本国内における計画はことごとく破れ、資金も逼迫してしまい、政治的画策は失敗した。滔天は、死亡する 前年まで、大陸本土に度々渡航した。1922(t.11)年、東京で没す。-腎臓病による尿毒合併症であった。
八郎(自由民権に散った天性の革命児)
真郷 :二男(1851~1877)は、1864年、父 長蔵と長州征伐の為、出陣の際元服。時習館にて学問し、1870(m3)年上京遊学。しかし、東京 で感じたものは明治維新政府の専制政治への怒りと独立国日本の将来への危機意識であり、1873(m6)年、左院に征韓の正当性を建白し、第二の 維新のリーダー的存在となる。反権力の意志を積極的行動に傾けた時、見出した中江兆民訳の『民約論』に感銘し、1875(m8)年、自由民権思想を かかげた植木学校を設立。あわてた熊本県は僅か半年で閉校を命じた。「西郷に天下取らせてまた謀反する」ため、民権党の同志たちと西南の 役で協同隊組織し戦うが、4月6日ついに八代萩原堤で戦死。自由と平等を愛する兄弟の精神的原点となる。
民蔵(土地復権を生涯の使命とした哲人)
巡耕 :六男(1865~1928)は、1885(m18)年 上京して中江兆民の私学塾に入った。程なく病の為に帰郷、農村の貧しさをみて土地制度に疑 問を抱き、天造物である土地の所有は人類の基本的人権の一つではないかと気づく。その後、土地の平均再分配をわが使命とし、1897(m30)年 欧米諸国へ遊説の途につく。識者と論じ4年後に帰国。1902(m35)年同志と共に土地復権同志会を組織したが、1910(m43)年大逆事件が起こり、 国内での運動は中絶。1912(m45)年”平均地権”の思想を同じくする孫文の新生中国の誕生に土地復権実現を託して、大陸へ渡った。孫文の死の 床を見舞った後も、復権運動の資金獲得のため専心したが成功せず、68歳で永眠。
弥蔵(理想の国を中国革命にみた思想家)
管仲甫 :七男(1867~1896)は、大阪・東京に遊学し、1888(m21)年熊本市藪の内に住み、病気療養の傍ら、民蔵、寅蔵、友人達と哲学、社 会問題等を激しく論じ、その会合は『藪の内組』と呼ばれ、警戒された。弥蔵は、中国を本拠地とした革命によって理想の国を築く事を願った 。そのため自ら中国人になりきり、横浜の中国商館で頭髪を剃り、名前も管仲甫と称し中国の言語・習俗の研究に励んだ。1896(m29)年孫文一族 の陳少白と出会い、宿願達成の端緒と狂喜したが、無情の病いに倒れ、「大丈夫ノ真心コメシ梓弓放タデ死スルコトノクヤシキ」の辞世を残し て年わずか29歳で長逝。
1897(m30)年孫文を招く
1897(m30)年、まだ草深い荒尾村を亡命客人 孫文が訪れた。滔天と綴った筆談の書や庭には孫文が親しんだ梅の古木、泉水、味噌蔵、それに 滔天がシャムから持ち帰った菩提樹等がその当時の様子を偲ばせる。近代日中交流史の原点でもあったこの家は、民蔵の没後、永く人手に渡って いたが、1992(h5)年、市制50周年記念事業を期に荒尾市が整備して公開に至っている。

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孫文(孫文と中国革命への道)
孫文(1866~1926) は広東省香山県の農家に生まれ、12歳で出稼ぎで成功者となった長兄を頼ってハワイに渡り、資本主義文明の優越性を知った 。5年後に帰国、広東・香港で医学校に学ぶ。1894年革命団体興中会を結成、1895年広東で蜂起を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。2年後 宮崎滔天ら日本の志士との交流を深め、1905年東京で滔天と共に中国同盟会を結成、指導理念として三民主義を唱えた。その影響の下に1911年辛亥 革命勃発、清朝は倒れアジアで最初の共和国である中華民国が誕生した。孫文は帰国して臨時大統領に選ばれた。なお残る封建的軍閥勢力と戦いなが ら、彼の三民主義は国共合作と共に反帝国主義の旗印を明らかにし、1925年以後の国民革命運動に思想的な基礎を与えた。滔天・民蔵との友情は最後 まで続き、『革命におこたらざる者は宮崎兄弟なり』の語を残している。
中国における彼
中国に於ける:政治家・革命家で初代臨時大総統。辛亥革命を蜂起。「中国革命の父」。また「先代革命先行者(近代革命の先人)」=「国父」海峡 両岸で尊敬される数少ない人物。中国では孫文よりも孫中山の名称が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。1935~1948年迄 発行の法幣(不換紙幣) で肖像に採用。現在ー100新台湾ドル紙幣に存在する。
革命家:
1894年1月、ハワイで興中会を組織する。1897年、滔天の紹介によって政治団体 玄洋社の頭山 満と出会い、彼を通じて、平岡 浩太郎から東京での 活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷を犬養 毅が斡旋した。1899年、義和団の乱が起きる。1900 年、恵州で再び挙兵するが失敗だった。1902年、大月 薫(日本人)と駆け落ち結婚。その後アメリカ~イギリスに渡り、一時は、イギリスの清国公使館 に拘留され、→世界的に革命家として有名であった。
思想
孫文の思想:「三民主義」も、マルクス・レーニン主義、リベラル・デモクラシー、儒教に由来する多様な理念が同時に動員されており、思想と言 えるような体系性・一貫性とはどうも違う。このような場当たり的な、一貫性に欠けることは、臨機応変に対応が出来る政治家・活動家であったという 理由によって肯定的評価もあり。孫文の中国国内よりも外国での活動のほうが長い。彼の名声とは、具体的成果より、中国革命のシンボルとして要素に なる。