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    唐津くんち

    日本三大くんち

       唐津くんちは、唐津神社の秋季例大祭で日本三大くんち(長崎くんち・博多おくんち)とされる。漆の一閑張りの技法で製作され た巨大曳山(ひきやま)が笛や太鼓・鉦(かね)の囃子(はやし)にあわせた曳子たちの「エンヤ、エンヤ」「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声と ともに唐津市街地の旧城下町を練り歩く。1958(s33)年、曳山14台が佐賀県の重要有形民俗文化財に、さらに、1980(s55)年には「唐津くんち の曳山行事」が国の重要無形民俗文化財に指定。この豪華な漆工芸品の曳山は、現代の製作費に換算すると1~2億円にも上る。   

    祭り
    ● 唐津神社の神職を務める戸川家の口碑によると、神輿の御神幸は1661~1672年(寛文年間)に始まった。今日の神幸行列のように曳山が 登場するのは、一番曳山の「赤獅子」が1819(文政2年)年に奉納されてからのこと。以後、曳山は1876(m.9)年までに15台が製作されているが、 内、1台が消失し、今日奉納されているのは14台である。消失した曳山は紺屋町が製作した『黒獅子』で、1889(m.22)年最後の巡行となった。 原因は色々あって、宵山に提灯の火がつき消火のために堀に落としたところ、損傷が激しいために廃棄したという説もある。しかし、その当時は、 宵曳山行事はなかったから、真相は不明。● 本来の「くんち」は、唐津神社の縁起にあわせて旧暦10月29日の本祭(現在ー本殿祭と神幸祭(御旅所 神幸)とからなる)を中心として営まれていたが、暦制の変更に対応して、1913(t.2)年には、本祭が新暦10月29日に、町回りが翌30日に変更。10 月28日に行われていた「前夜祭」(のちに「宵曳山」に名を変えて)が正式行事に加わったのが1962(s.32)年から。● さらに、週体制の浸透や外来の 観光客の招致が理由で、1968(s.43)年には、本祭のうち本殿祭のみを10月29日に残して、御旅所神幸祭は祝日の11月3日と定めた。これで、宵曳山も 11月2日、町回りも変更になった。それで、一般には、曳山の巡行をともなう、この11月2日から3日間が「唐津くんち」と呼ばれるようになっている。

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    曳山
    ● 「漆一閑張り」という技法で製作されている。その製法は、先ず、粘土で型を取った後、その上から良質の和紙を200枚くらい張り重ねて厚みを作ってから 中の粘土を取り外す。その和紙の上から漆を塗るが、下地を7,8回塗ってから、中塗り、上塗り、重ね、その上に金箔や銀箔を施して仕上げている。● 14町の曳山 に共通する基本的な構造は、曳山の主要な部分である獅子頭や兜などの巨大な工芸品を、車輪の付いた樫造りの台車の上に載せるものである。台車の前方には、 100mほどの長さになる2本の綱に数十人の曳子がついて曳山の前方に曳いていく。また、台車の後方には、2本の梶棒(かじぼう)が突き出ており、この棒を操作 することで曳山の進行方向を操作する。(なお、大石町の鳳凰丸には台車の前方にも2本の梶棒がある)。● 各々曳山には製作順に番号が付いており、「6番曳山」 あるいは「6番ヤマ」と呼ぶ。

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    曳子の衣裳
    曳子の衣裳は、火消し装束という肉襦袢(にくじばん)や長法被およびハチマキ、そして、ハチマキは町内毎にデザインが異なり、意匠と工夫が凝っている。中でも 法被と呼ぶ肉襦袢は、羽二重(はぶたえ)という正絹の2枚重ねの生地で出来ている。