五重塔

五重塔

東寺 ①

所在地 山号 宗旨 寺格
京都市南区九条ー1 八幡山 東寺真言宗 総本山
本尊 創建年 開基
薬師如来(重文) 796年 恒武天皇
正式名 別称
金光明四天王教王護国寺秘密伝法院 宗教法人公称教王護国寺 正式名別称弥勒八幡山総持普賢院 左大寺
札所等
真言宗十八本山第9番 西国愛染十七霊場第8番 洛陽三十三ヵ観音霊場第23番所 京都十三仏霊所第12番   都七福神(ここは毘沙門天) 神仏霊場巡拝の道第84番
文化財
金堂 五重塔 御影堂 蓮花門 絹本著色真言七祖像 不動明王坐像ほか(国宝) 世界遺産

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   全ての真言寺院の総本山、根本道場で、また、東寺真言宗の総本山。「教王護国寺」。8C末平安京鎮護のための  寺院として計画された後、嵯峨天皇より弘法大師に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降は、弘法大師に  信仰の高まりから、「お大師様の寺」として庶民の信仰を集め、21Cの今日も繁栄していて、京都の代表的な名所として存  続。1934年に日本国の史跡指定。そうして、1994年12月には「古都 京都の文化財」として世界遺産に登録された。   


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                       金  堂                       

    ここの中心堂宇、他の堂塔のうち最も早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された823年迄に完成と推定   される。この堂は1486年に土一揆で焼失した、約1C近く再建されなかった。現存の建物は1603年、豊臣 秀頼の寄進 にて再建、奉行責任者:片桐 旦元。入母屋造本瓦葺き、外観から二重に見える。→一重裳階(もこし)付き、建築様式 :和・大仏様(天竺様)が併用され、貫・墫・肘木等を多用して、高い天井を支える点は大仏様式の特色。内部は広大な 空間の中に薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。    

    木造 薬師如来像及び両脇侍像ー金堂本尊・中尊のお像で、高:2.88m、台座と光背を含めた総高:10mに達す 巨像で、中尊の光背には七仏薬師像を配置。台座の懸裳の下には、薬師如来の眷属である十二神将像が配置。仏師 康正 の作で、日本の仏教彫刻衰退期の桃山時代の作。薬師如来像が左手に薬壺を持っていず、坐法が左脚を上にする坐法にあ るから、台座を古風な裳懸座とする点などに復古的要素が伺えるそうです。    


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                       講 堂                       

    823年は、まだ建立されず、825年に空海により堂宇の着工、835年頃完成。この当初の堂は土一揆による 火災で焼失し、1491年に再建されたのが現存する講堂。建築様式は単層入母屋造・純和様式。この堂は、大日如来を 中心とした密教仏尊像を安置する。須弥壇中央→大日如来を中心とする五体の如来像(五仏、五智如来)向って右 (東方)には金剛波羅蜜多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩)、向って左(西方)には不動明王を中心とし た五体の明王像(五大明王)が安置。須弥壇の東西端には、それぞれ梵天・帝釈天・須弥壇の四隅には、四天王像が 安置。以上全部で21体の彫像が整然と安置され、五体曼荼羅を構成している。これら諸仏は日本最古の本格的な 蜜教彫像で、空海没後の839年に大仏開眼供養が行われている。しかし、この全体の構想は空海に拠るものとされる。 21体の仏像の内、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は室町~江戸期の補作である。しかし、残りの15体は835年 作の像で、平安時代前期を代表する蜜教彫像として国宝に指定。21体の仏像の表現する具体的な意味について、か っては仁王経に基づく立体曼荼羅であると説明され、仁王経と金剛界法と融合したものとも説かれるが、定説が無い。


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                     五仏坐像                        

   金剛界大日如来を中心として、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来、阿しゅく如来、を配置。大日如来 は、1497年の仏師 康珍の作、宝生如来・不空成就如来・阿しゅく如来は江戸期の作で、阿弥陀如来の頭部だけを平 安期の古像のものを流用し、体部は江戸期の作。   

                    五大菩薩坐像                       

   金剛波羅蜜多菩薩を中心に周囲に金剛宝菩薩、金剛法菩薩、金剛業菩薩、金剛さったー各像だ。 金剛波羅蜜多菩薩像は江戸期作で国宝指定外、他の4体は後世に補修箇所多い、当初像で奈良期作。   

                     五大明王像                        

   不動明王像を中心に降三世明王、大威徳明王、軍茶利明王、金剛夜叉明王を配す。東寺御影堂の不動 明王像と共に明王像として日本最古のもの。   

                      密教像                        

   梵天坐像、帝釈天半跏像、梵天像は4面4臂の密教像。   

                     四天王立像                        

   4体のうち、持国天像は表情に怒りをあらわし、激しい動きを見せる。他の3体は表現は抑制されて、 多聞天は後に補修部分が多く、作風が他の3体と異なっている。   


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                      五重塔                        

    京都のシンボルとなっている塔(勿論、東寺は言うに及ばず)高さ54.8mの木造の塔で日本一の高さを 誇る。826年空海により、創建着手に始まるが、しかし、実際に建立したのは、9C末。雷火や不審火で4回火焼失が、 あって、現在の塔は5代目の塔である。1644年に家光の寄進で建てられたもの。初重(一階)内部の壁や柱には両界 曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置。真言密教の中心仏尊の 大日如来像はここにはなく、心柱を大日如来と見做している。江戸期の作風を伝えている。   


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    「東寺」は796年藤原 伊勢人が造寺長官(責任者)となって建立。この建築工事責任者は公式書には 名前なし、実在したかどうかは、東寺は古くより796年を創建年としている。20数年後の823年弘法大師(空海)は 嵯峨天皇から東寺を下賜った。平安後期には一時期衰退する。しかし、鎌倉時代から庶民信仰の高まりで、「お大師 様の寺」として盛栄化してくる。後白河法皇の皇女である宣陽門院は、霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を 寄進した。また「生身供」(しょうじんく)は空海が、今も生きているごとく毎朝食事を捧げる儀式を行っていた。 それに、「御影供」(みえく)は、毎月21日の空海の命日供養を行う。---などの儀式を創始した人。「生身供」 は、21Cの今日も早朝6時から東寺の西院御影堂で行われている。善男善女が参列する。また、毎月21日の御影堂の日 には、東寺境内には骨董市が立ち、「弘法市」とか「弘法さん」と親しまれている。    

    中世以後の東寺は後宇多天皇、後醍醐天皇・足利尊氏、など貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。1486年 の火災で主要堂塔のほとんど失うが、豊臣家、徳川家などの援助により金堂・五重塔などが再建されている。何度かの 火災を経て、東寺は創建当時の建物は無いが、南大門・金堂・講堂・食堂が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や 各建物の規模は平安の時のまま。