所在地 | 主祭神 | 社格 | 創建 | 本殿の様式 | 例祭 | 主な神事 |
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太宰府市宰府4-7 | 菅原道真公 | 旧官幣中社 | 919年(延喜 19) | 五間社流造檜皮葺 | 9月25日 | 鷽替え・鬼すべ(1月1日) |
大宰府天満宮の歴史 |
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右大臣であった道真は901年(昌泰 4)に左大臣藤原時平の陰謀により、筑前国の大宰府に権師として左遷。903年(延喜 3)に同地で死去した。その遺骸を安楽 寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、905年(延喜 5)8月、同寺の 境内に味酒 正行(うまさけのやすゆき)が廟を建立、天原山びよう院安楽寺と号す。一方、都で疫病や異常気象など不吉な事が続き、これを「祟り」と恐れてその御霊 を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、919年(延喜 19)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀で 990年(正暦 元)頃からは社号として「天満宮」も併用された。 1490年(文明 12)、連歌の宗祇が『筑紫道記』に安楽寺天満宮のことを記述。これには、道真の御霊に 対する恐れも少なくなってきた中世ごろから、道真は生前優れた学者であったことにより学問の神として信仰の対象となった。 明治に入り、1871年(m-4)には国幣小社 に列格する、神社名「大宰府神社」に変わった。なお、「宮」号が基本的には皇族を祭神とする神社しか用いられなかったから<理由> 1881年(m-14)官幣小社、1895年 (m-28)官幣中社に昇格。神社の国家管理を脱した戦後の1947年(s-22)に社号を太宰府天満宮に回復した。 |
飛梅にまつわるもの: |
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①京都を出発つ道真が庭先に立っている梅に対して「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠った。 大宰府天満宮拝殿・右手前に 「飛梅」。 ②毎年 梅の花が咲く頃には、巫女が「梅の使者」として総理邸宅に各地を訪問して、梅の盆栽を寄贈。 |
菅原道真(845/08/01~903/03/26) |
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平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の3男。従2位・右大臣。贈正1位・太政大臣。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人 であり、醍醐天皇の代右大臣に上格。しかし、左大臣藤原時平に讒訴される。現在 学問の神として親しまれる。幼少より学問の才能を見せ、18歳で文章生。その5年後、二名 の選抜された文書特待生、正六位下に叙せられ、下野権少掾の地位。その後、方略試に中の上でパス、3階位進級→五位に達する。1階増して正六位上に叙せられた。次々と 公務の位を上げていく。今までは、家格に応じた要職だったが宇多天皇の信任厚く、以後、次々と要職歴任の身分。権勢をふるいつつあった藤原氏は、有力者が居ない為、宇多 天皇は道真を用いて藤原氏を牽制する。道真の長女を宇多天皇の女御とし、三女には宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とした。この時、天皇は醍醐天皇になるが、道真を引き続き 重用するように現天皇に強く求めた。時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許可。それで、正三位権大納言に叙任し、その上、右近衛大将・中宮大夫を兼務。醍醐天皇の御代でも、 道真は昇進続けた。道真は中央集権的な財政を実行するのに対して、藤原・有力貴族の反撥が表面化してきた。現在の家格に応じてそれなりの生活の維持を望んでいた中下級貴族 の中にも道真の行っている政治改革に不安を感じて藤原一族に同調するものも出てきた。道真は右大臣に昇進し、右大将を兼任。三善清行は900年に、道真に止足を知り引退して 人生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。このように権勢を誇っていたのであった。太宰権師に左遷された。その後、長男高視を初め、子供(道真の)4人が流刑に処す。 |