豊後街道②
豊後街道②
二 重 峠 の 石 畳 (豊後街道① 続き )
阿蘇谷 ~ 二重峠へ向かって石畳を歩いて峠へ目指す。
2016/02/28 (SUN) 12:31 ~ 13:08 撮る。
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二重峠の石畳 阿蘇市車帰
OUTLINE
二重峠 標高 683m、ファイルは、阿蘇谷~二重峠に向かって表している。それで、解説が逆になる。――― 大津町~阿蘇市に向う途中の阿蘇北外輪を越える峠。古代から利用されていた
と考えられていますが、峠道として本格的整備されたのは江戸時代になってからで、豊後街道(豊後往還)の一部となっています。現在、大津町~小国町に通じる「ミルクロード」(県道339号線)
と阿蘇市と菊池市を結ぶ主要地方道23号線が交差する地点が二重峠となっていますが、豊後街道の二重峠はその処から北に1km登った「ミルクロード」沿いにある。ここから麓迄は、くねくね曲が
った急坂の連続であり、谷川は、覗くと吸い込まれそうです。「豊後街道」の標識傍から下に向って石畳が延びすぐ急な下りになりますが、確りした石畳で足元に不安は感じ無し。さらに下ると、
「史跡二重峠」の標柱があり、その先に「岩坂村つくり」と刻まれた大石が残っています。岩坂村(現・大津町)は、ここから12km余、離れた村で、この石畳づくりの広範囲に村々から民衆がかり
出されたことが分かる。二重峠~坂下までの道は険しく、また火山灰土であるために雨が降る度に道が痛んだといわれ、そのために九十九折れの急坂の道に石畳が敷きつめられています。この石畳
は、長さ2km、道幅4m、水きり、水抜きなどが工夫されている。往時は、峠小屋が十数戸並び、参勤交代の人夫が此処で交代したそうでだ。また見送りや出迎えの場所だった。なお、参勤交代の行
列は此処から阿蘇谷に向かい、その規模が、最大の時には総勢2720名で、1831年(天保-2)の時だったとされている。この峠を上り、下りする行列は、山肌に太い線が連なって見えたことでしょう。
この峠の名前の由来は、阿蘇開拓神の健磐龍命(たけいわたつのみこと)がカルデラに溜まった水を流して美田にしようと蹴破ろうとし、二重になっていたため蹴破れなかった場所、という伝承による
ものです。
石畳の文字塔
案内板近くに「岩坂村づくり」の文字が刻まれた敷石がある。12km余り離れた岩坂村(大津町)からこの石畳づくりにかりだされた農民の苦労(苦役を当然としていた)を物語っています。
牛王さん
道中の安全を祈る地蔵さん
熊本県の資料 ・ 肥後四街道の資料 より。