肥後古代の森②

肥後古代の森②

                       装 飾 古 墳 館 その2                       

                       装 飾 古 墳 室 内                       

   

 菊池川流域をはじめ、県内12箇所の装飾古墳が精密に作り上げられたレプリカ展示場所。 

                       「装飾 古墳」とは                       

 「装飾 古墳」とは、古墳内部の石室や石棺、また崖面に造られた横穴墓の壁面に絵画や文様が描かれたものの総称である。日本全国に約600基見られるが、そのうち200基余りを 熊本県が占め、日本一である。 


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 山鹿市鍋田 7C. 横穴墓 装飾:人物、弓、盾、靫などを浮き彫り。61基からなる横穴墓で、その中で、16基が装飾横穴鍋田に所在。ここ鍋田には阿蘇の大噴火でできた熔岩(阿蘇 凝結溶解岩)が露頭している箇所があり、古墳時代の人々はここに横方向に穴を掘って、墓所としました。この古墳の左外壁には、人物、弓、盾、馬、靫(矢の入れ物)などが線刻されている。 山鹿市内ではこの他、長岩横穴群や城横穴群など多数有ります。鍋田横穴群は、わが国の代表格と言えます。 


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 上益城郡嘉島町井寺の地。 6C.前半頃 円墳 装飾:直弧文、同心円文などを線刻の後に彩色、赤・白・緑。ここは、井寺集落の背後の丘陵南西斜面(標高21m)に在る。1921年国指定。 貴重な装飾古墳であって、石室は西に向かって開口。横穴式石室、奥行 2.94m、幅 2.47m、天井迄の高さ 3.08m、長軸は1.08m、幅 0.56mのセン門。石室は、阿蘇熔岩をレンガ状に整えた切り石 を積み上げ。天井石は、内面を長楕円形に抉った巨石。石障の内避となる上面、セン道の両側壁入り口の両袖石などには、直線の周囲を様々な弧線で囲み、赤・白・青・緑の4色で塗り分けられた 文様が描かれている。直弧文では最も優れたものといわれ、国の重文指定。 


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 不知火町長崎。 5C.後半期 円墳 装飾:直弧文浮き彫り赤・灰色で彩色。白梅幼稚園北西の丘陵を南下すると道路が狭くなった地点の農地内に石室が不完全だが残って大形の箱式 石棺みたいな形状。円墳の残りより推定:直径 2.4m 高さ 3m の円墳。石室内に下りると、南側:長さ2.9m、幅2.5m、東側:石板状、北側:石板状、西側:蓋石に装飾壁画が彫られた石棺だった。 現在は何も無し。 


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 玉名市玉名。 7C.初頭 円墳 装飾:三角文や円文、舟などを彩色。菊池川右岸の洲積地を望む丘陵裾野に営まれた装飾古墳で、永安寺と呼ばれる寺院跡を挟んで東西に約 40m 離れて 所在する。玉名市周辺に多い装飾古墳の中でも優れたもの。1992年 国の史跡指定された永安寺東古墳は墳丘の大半が失われているが、墳丘裾野面に営まれた比較的小規模な円墳が見られ、東南に開 口する横穴式石室の内、後室と前室の一部が残る。石室自体が阿蘇泥熔岩の加工石材を組み合わせて築かれ、後室の正面に板石で石屋形を設ける。長さ 2.6m、幅 2.4m、高さ 2.7mで、前縁に 三角文の線刻がみられ、彩色されているものと推定。前室は、現在、長さ 1.6m、幅 2.3m、高さ 1.6m で前室奥壁の左右2石に浅い縦線を彫り、この左右に連続3角文を線彫りして赤色に塗っている。 左右の側壁にも円文、舟や馬と見られる文様等が描かれている。西古墳も小規模な円墳とみられる。後略。 


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     出土遺物は金製の耳飾りや真珠、玉類などの装身具、銅鏡、太刀や鉄鏃などの鉄器、鉄製の馬具類、土器・埴輪など数百点にも上る。     


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 「大鼠蔵東麓1号墳(石材)」八代市所在 5C.後半 装飾:弓、靫、鎧、鏡。標高40m 小山の北隣にある小鼠蔵とともに八代海の小島(江戸時代)だった。楠木山古墳は中央最高 部にあり、主軸の長さ 4.48m、幅 1.12m の南北に細長い、割石積もの竪穴式石室で、人骨、剣、刃子、鏃、碧玉製紡錘車などが出土し、石室形態と出土遺物から4C. 後期の製造。墳形は未 調査のため、円墳?前方後円墳?→不明。石室の壁に沿って低い石障をめぐらし、それを2枚の板石で区切っている。正面の石障には円文3個彫られている。特に、東麓1号石棺の西側壁に は弓、靫、短甲、太刀、円文などが線刻してある。熊本県指定 1963/01/22。 


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 「広浦古墳」上天草市大矢野町所在 5C.前半 装飾:刀子、太刀。 1918年に、上天草市維和島の南端から見つかったー「装飾のある石材」から過って装飾古墳のあったことが、判明 しています。1919年から京都大学総合博物館で所蔵されています。 


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 「弁慶ガ穴古墳」は、山鹿市熊入所在、6C.末、円墳 装飾:同心円文、舟や馬などを彩色。山鹿市中心部より、約1.2kmの位置。古墳時代後期のもの。巨大な凝灰岩を用いた前室・ 後室の複数の横穴式石室を設けている。西向きに開口して、石室入口に人物の彫刻があるほか、前室右壁にはゴンドラ型の船を上下に二艘描き、もうひとつにには荷物とその上に鳥が乗って いる様子を描いている。この荷物と柩と見ることにより、舟葬思想(死後の世界を海の彼方に有ると考え、遺体を舟に乗せて葬るという考え方)を裏付けるものとして注目されている。他にも 大小5頭の馬と鞭らしき物を打った人物像、同心円、三角文などを赤色の彩色で描いている。現在では、その彩色が退色著しいため、見学できない。 


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 玉名市玉名 所在 6C.後半 前方後円墳 装飾:連続三角文や円文など彩色(赤・グレー・黒)。菊池川左岸の玉名平野を望む、丘陵先端に位置しており、墳丘は変形しているが前方後円墳 である。後円部には前室と奥室とからなる複室と呼ばれる構造の横穴式石室を持ち、南側に開口。1968年に内部の清掃と調査が行われその全容が明らかになった。装飾は、この第1、第2セン門 の両支柱と奥室と石屋形と呼ばれる石棺状のものに朱と群青を使って施されており、特に石屋形には5段に並べられた多数の連続三角文と、その中に数個の円文を描く。出土遺物は金製の耳飾 りや真珠、玉類などの装身具、太刀や鉄鏃などの鉄器、鉄製の馬具類、土器など沢山存在した。ここの規模:全長 64m、前方部 約 30m、後円部 直径 24m、奥室の床面積 2.7 ㎡、奥行き 3.4m 高さ 2.8m。国の史跡指定 1977年。 


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 山鹿市城 所在 6C.中頃 前方後円墳 装飾:人物、三角文、円文が彩色。国の史跡指定 菊池川支流の岩野川右岸で、標高約45mの平小城台地東端に位置。周辺は装飾古墳が多い所 (上流に城横穴群、付城横穴群、馬塚古墳)。後円部南にセン道をもつ、前室・後室の複数の横穴式石室を設け、石室内の石屋形内壁と屋根の軒部前面に装飾文が描かれている。内部石の 上段に白の円7個、下段に冠をつけ、両手両足を広げた人物像とその右に三角文を白色で、その他は、赤色で塗っている。正面の側石に三角文菱形文を主に、正面中央に円文を描き赤・白・ 青の三色で塗り分けてある。特に、中央に描かれている紋様が女性の乳房に似ているので、「乳の神様」として現在に至るまで、崇められている。古くから開口していたから出土品は不明。 事前調査によると、円筒埴輪、形象埴輪が出土している。前方部と後円部の境界に奴凧形の石人が立っていた。ここの規模:全長 45m、後円部直径 23m、高さ 7m、石室:セン道→奥室約 6m 前室は 1.9m の方形、後室の奥壁沿いに長さ 2.3m、奥行 0.9m、高さ 1.4m 寄せ棟造りの象形石棺が置かれている。 


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 山鹿市石 所在 6C.後半 装飾:胸に短甲(よろい)、背に靫を浮き彫り、彩色は赤。これは、墳丘に立てられた石製の人形のことで、武人の姿をしたものが多く見られる。他に馬 や靫・蓋などを形どった石製品も見られる。石人石馬が出土した古墳は、八女市~広川町~みやま市~荒尾市~和水町(江田・船山古墳)~山鹿市まで、そして、臼杵市など九州に多い。 なお、中国地方で米子市の石馬谷古墳でも発見されている。 


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 宇城市三角町 所在 5C.中頃、円墳の形 装飾:円文、靫、盾などを浮き彫り。ここは、宇土半島北岸の海岸近く迫る低い丘陵の先端部に在る。古墳は直径20m程の円墳。すでに封土の大半を 失い、石室附近に石室用材が積まれており、「珍韓(チンカン)」さんと俗称されていた。1978年に発掘調査で、古墳上は海抜7.2mの所が畑地になっており、石障は4面が残り、東西 1.9m、南北 1.85m で内部の礫床までの高さ 0.65mであることを確認。この砂岩を整形した厚さ 8cmの石障の4面には彫刻と彩色による装飾がほどこされ、北側に円文4、奥壁側と東側に円文3、靫2、盾2、南側に円文3、 西側に円文2があり、いずれも2本の横線内に収められている。円文は直径17~18cm.で中心孔がえぐられ、上下に2本の紐状の表現があり、盾には紋様が施されているなど、写実性を残す石障系装飾古墳 として重要とされ、1979年に国の史跡指定。出土遺物に人骨片、刀子、小玉、鈴等。 


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 熊本市西区小島町 所在 5C.の後半 円墳 装飾:靫、同心円文などを浮き彫りの後、彩色。赤・黄・緑使用。熊本市の西端、金峰山から南に延びる権現山丘陵南斜面で標高110mに位置。 周辺には、寺屋敷古墳群、権現平古墳群、楢崎山古墳群、高城山古墳群ーーー群集し、この古墳は千金甲古墳群5基の内、最も高い処にある円墳。墳丘は斜面の少しなだらかな山沿い(北西斜面)を 少し削って半周溝状に堀り、その上を盛り上げて造っている。南西方向にセン門を設けた円墳で、セン道は埋没しているが、長さ 3m、石壁は安山岩の割り石、平積みで高さ 2.5m、奥行き 2.7m、 幅 2.6m、石室内に凝灰岩板石6枚を使って、石障をめぐらし、その内壁に同心円と対角線、靫の文様を刻み、赤・青・黄の3色で彩色。早くから石室の天井部近くが開口していたため、副葬品は 残っていないが、6C.初め頃の建造物と推定。彩色古墳として貴重なことから、1921年に国の史跡指定された。 


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