不開門
不開門
国指定「不開門」特別公開中 2014/03/01~2014/04/06
「不開門」
常時は扉を閉ざしていた不開門です。しかし、現在は伝統工芸館への近道でもある。この門は城の鬼門である北東に位置。昔の陰陽道ではこの方角を塞いでも、開け放してもいけないと
され、門は造るが普段は閉ざして、不浄のものを運ぶときだけ、この門を開いたと言われている。現在は入城口として使用されており、何かと便利が良い。国の重文指定。扉は透格子を配した
古形式を残している。元来、熊本城は櫓門の数は、18櫓、その他の城門は29城門があるのだ。→ここは、死人搬出時や不浄物の搬出にだけ用いられていた。
不開門→形式は、両側の石垣の上に櫓を渡し架けて、その下が櫓門で、要衡に配置されていた。復元されている「西大手門」「南大手門」も同じ形式。往時の熊本城では、18カ所に櫓門
が造られていたが、江戸時代そのまま現存するのは、この「不開門」のみになっている。漆喰や壁、松の粱は江戸時代ままの状態。櫓の中には、本丸御殿の復元した時に、発見された鬼瓦なども
展示してある。 1933年 (s-8)、国宝となり、戦後は、国の重文指定。
東十八間櫓に当る。
重要文化財櫓群
熊本城東竹の丸ゾーンに存在。これは、西南戦争の戦禍でも残った櫓群は、国指定の重文である。本丸東竹の丸には、高い石垣の上に、西南戦争の火災にも、焼け残った櫓が建ち並び、国指定に
されている。南から田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、源之進櫓、少し間を置いて東十八間櫓、北十八間櫓、五間櫓、不開門、平櫓と続きます。櫓は古くは「矢倉(やのくら)」と書き、武器庫から
発展したものである。普段は倉庫として使用されていた。外側には、「石落し」や「狭間」があり、いざというときは、戦える構造、また、この城の櫓の名は、単に大きさによって「七間櫓」「十四間
櫓」と呼ばれるもの、管理していた人物の名前に由来する、「源之進櫓」「宇土櫓」等、建っている方角により、「戌亥櫓」「未申櫓」と呼ばれるもの。中には「田子櫓」のように収納していた木製の
容器の名前や、現在復元整備中の「馬具櫓」などの馬の道具に関するものも有。ちなみに、熊本城では、長さを表わす単位「一間」は6尺5寸=約197cm。この東竹の丸の櫓群以外にも、「宇土櫓」「長
塀」「監物櫓」が国の重文指定とされている。
梅 園
飯田丸五階櫓周辺に梅園がある。170本の梅で2月中旬~3月上旬に花が咲く。
肥 後 椿 園
熊本城内の竹の丸ゾーンにある。櫨方門から入った場所。元来、細川重賢 八代藩主の時に、武士のたしなみとして、始められた肥後六花がある。肥後六花の各々に花蓮と呼ぶ保存団体があり、門外不出
として現在に伝えられている。自生の椿から改良されたもので、1751~1764年(宝暦年間)に始まる。1829年(文政-12)には、30品種もの詳細な内容のデータがあった。西南戦争の兵火で多くが失われた。しか
し、その後、再び盛んになっていく。特に、第二次大戦後、各地でブームを呼び、広く、海外にも知られ世界の名花の一つとなっている。1944年(s-19)には、熊本市の市花に選定された。保護団体「肥後椿協会」
この「特徴」として⇒花弁が大きく大輪の一重咲き。雄蕊は管状でなく、梅の花のように梅芯状になっている。この梅芯が大きく整っているものは優品。色は白、ピンク、赤、それに絞りになった綿などがある。
花期は2月~3月。
肥後椿協会の展示 城彩苑にて