熊本に来て4年余りの期間に6回の転居で、ここ5回目の場所、漱石が”引っ超し魔”と云われるが、一番気にいったのであろう。今は、漱石記念館だ。
部屋割の平面図を表示。
当時の五高に英語科の教授として比較的平穏な学究生活を送りました。校長中川元、教頭に桜井房記、英語科主任佐久間信恭、同僚に生涯の友人菅虎雄、漱石の漢詩の添削をした長尾雨山がおりました。五高生の弟子たちにも沢山囲まれていました。
漱石の姿はこんなものだったのか。
1897年12月末、正月を過ごすため同僚山川信次郎と小天温泉へ旅行しました。このときの体験が『草枕』の素材となっています。この作品は漱石自身「美を生命とする俳句的小説」と語っています。
1899年8月~9月にかけて、漱石は一高へ転任する同僚山川信次郎を一緒に阿蘇登山の旅に出たときのことを書いている。内牧温泉で女中さんや碌さんとの会話が面白かった。
漱石の処に集まる弟子たちのなかでも最も古く、科学や西洋音楽などは、寅彦が漱石に教えることも、しばしばでもう対等の友人として扱われていたようだ。それは、漱石が門弟との面会日は木曜日と決めていたが、寅彦は、それ以外の日にも漱石邸に訪問していたから。
漱石夫妻は在熊中、この5番目の旧居が「一番いい家」であったと語っています。(敷地1,434平方メートル・建物232平方メートル)この旧居全体を記念館とし、邸外には漱石の句碑や長女筆子が生まれたときに産湯を使った井戸、寺田寅彦の馬丁小屋があり、展示室には漱石五高時代のPhoto、草枕絵巻等を多数展示してあります。1978年4月25日熊本市指定史跡となっています。
「筆子」産湯の井戸、この井戸は1899年に長女筆子が生まれたときに産湯として使用しました。
”安々と海鼠の如き子を生めり”(漱石句)1899年5月31日 この家で長女 筆子が生まれた。(漱石 32歳、鏡子夫人 32歳)、当時、熊本には水道がなかったので、産湯の水はこの井戸から汲まれ、産湯は現在の台所で使ったという。漱石は、長女出産の喜びを上記の俳句に詠んだ。妻の苦労をいたわっている。
漱石の句碑
「おい」と声を掛けたが返事がない。彼らの旅の途中のこと。1897年12月末頃、104年前の金峰山の風景。
1899年8~9月 阿蘇の風景 ”行けど萩 行けど薄の原広し” (漱石)