復元
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歴史公園 鞠 智 城
熊本県のサイトでは、「きくち」と振り仮名が振られている。山鹿市(旧鹿本郡菊鹿町)から菊池市にかけて所在している。菊池市隈府にあった菊池氏の居城
「菊池城」とは別物の「お城」。
文武天皇時代の修築記事(698年)で、初めて、その名が正史に登場する。建築城としての年月日の記載は無い。それで、現在でも確かなことは、不明。しかし、
7C.後半に、倭軍が朝鮮半島の白村江で唐・新羅の連合軍に敗れて、来たる外敵に備える軍事拠点と位置付けられて築城されたものと推定。古代史の資料『六国史』の記述や
百済系瓦の出土例等より、鞠智城は百済亡命貴族の指導で築城されたと考えられており、遺跡から百済貴族が持込んだと推定される青銅製の菩薩立像も出土している。なお、
ここは、大宰府管轄下にあった6城の1つで、大野城・基肄城の兵站基地として有事に備えた城と推定。城の面積は内城55ha、外縁地区65haに及ぶ。 『続日本紀』には、
文武天皇二年(698年)五月二十五日条→「大宰府をして、大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の三城を繕治せしむ」と有り。 『三代実録』では、元慶三年(879年)三月
十六日条→「肥後国菊池郡城院の兵庫の戸が自ら鳴る」と有る。
1959年(s.34)に「(伝)鞠智城跡」として県指定遺跡に指定。 1967年(s.42)より発掘調査が行われ、当時としては珍しい八角形建物(韓国の二聖山城跡に
類似の遺構がある)をはじめ72棟の建物基礎が現在まで確認されている。 1994年(h.6)より「歴史公園鞠智城・温故創生館」として整備が開始された。校倉造の米倉や兵舎
が1997年(h.9)に、八角形鼓楼が1999年(h.11)に復元となり公開されている。 2004年(h.16)には国の史跡に指定。
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まだ、県外にはあまり知られていない、しかし、その復元された建物や緑一面の敷地に足を運ぶと、一瞬にしてタイムスリップしてしまう程の雰囲気を持つ。