サクラ③

サクラ③

熊本城 サクラの名所としても知られており、日本サクラ名所100選に選定


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行幸坂にて


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熊本城とは
熊本市北区植木町の中心から南に京町台地の尖端、茶臼山丘陵一帯に築れた平山城です。現在地名で、本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町 に当る。中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山末期から江戸初期には、加藤清正がこれを取り込み、現在のような姿の熊本城を建築した。日本三名城 の一つ。「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城として「日本一」で ある。細川氏の居城となった後も盛んに改築が行われ、明治時代の初めまで、大半の建物は撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や 石垣、曲輪の撤去や改変が行われた。西南戦争で一部の建物を残して、天守を含む御殿や櫓など主要な建物が焼失した。現在は宇土櫓や東竹之丸の櫓群が 残る。石垣普請の名手であった清正が築いた石垣は1889年(m-22)の熊本地震で石垣の一部崩落した、改修された部分があるものの、ほゞ江戸期の改築による 変遷の痕跡をとどめ、城跡は特別史跡に指定。昭和時代中期には大小天守と一部の櫓の外観復元され、近年では、櫓、本丸御殿などの主要な建物と木 構造で復元の事業が行われている。

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熊本城時代
1587年(天正15)、秀吉の九州征伐に際し、佐々成政を新しく肥後領主として隈本城に入ったが、秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国人一揆を引き起こす。 この時、城代は死守して落城せず。翌1588年(天正16)佐々成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半分国19万5000石の禄高でもって、領主となり、隈本城に入った。 加藤清正は、1591年(天正19)から千葉城・隈本城にあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始め、1600年(慶長5)頃には、天守完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万 石の領主。1606年(慶長11)には城の完成を祝い、翌年(1607年)「隈本」を「熊本」と改名。それが現在の熊本城である。1610年(慶長15)から、通路によって南北に分断 されていた本丸に通路を跨ぐ形で本丸御殿の建築が行われた。これにより、天守に上がるには、本丸御殿の地下通路を通らなければならないようになった。1632年(寛永9)、 清正の子・加藤忠広の改易により小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり、熊本城に入った。この時、忠利は天守に上り清正を祀る廟所である本妙寺の方角に 向って遙拝したとの伝言。忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後歴代藩主はここを日常の居所とした。加藤家の治世末期には、藩財政の疲弊や お家騒動により、城の修理もままならない状況であった。細川忠利は入部後、直ちに熊本城の修理を幕府に申し出ている。修理は建築物の修繕だけではないのだった。本丸の 増築(二様の石垣に跡が見られる)にも及び、現在、見られる縄張りはこの修理の際、完成したものである。

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上のフォトは、二の丸広場から見た素晴らしい景観。


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城郭形式は、梯郭式平山城。広さは約98万平方メートル、周囲は約5.3キロメートル。南西の古城と北東の千葉城を取り込み、それらを出丸。南東を流れる白川を外堀に見 立て、これに合流していた坪井川・井芹川を分離し、内堀としている、それで城内にある水堀は飯田丸の西にある備前彫り1つのみ。本丸は丘陵の東の最高位置の場所に造り全面 石垣積みとして、西へゆるやかに下がる二の丸・三の丸は重点個所のみに石垣を築き、経費を抑えた。搦手口のある北は他の方面に比べ、内郭に近接しているので一般的に弱点 とされるが、断崖と空堀(今は道路)に仕切ってあって、突破は困難。対して、西は開放されて多少なりとも傾斜は緩い。そのため、西出丸・二の丸・三の丸で区画して防備を 固めている、しかし、城郭西端の先に独立した小丘→段山。兵力の関係で総構えを放棄した西南戦争ではここを巡る戦いが熾烈を極めたのだった。

天守
連結式望楼型、大天守は3重6階地下1階で、「一の天守」とも呼ぶ。小天守は3重4階地下1階で、「二の天守」とも言われ、「御上(おうえ)」と言う夫人のための建物。一般 大天守、5重の天守として見られているが2重目にあたる部分と4重にあたる部分は屋根がなく庇とするので、3重6階地下1階の天守。これは、萩城天守と同様に天守台から少し張り出す 「張出造」であって、張り出し部分には石落して攻撃する所があり、因みに、城の北東に清正が建立した豊国廟跡(立田山中腹)と城の南西の妙解寺跡(花岡山麓)にある細川家の霊 廟の2つを結ぶ直線上に天守がある。また、小天守の天守台は大天守に被さるように造られており、大天守の天守台石垣の勾配は急角度だ、天守台と建築物の間には、名古屋城天守と 同様に60センチメートル程の「忍び返し」という鉄串が刺してあり、再建されているとはいえ各所に大天守との建築時期の違いを確認できる。

 ①大天守が1601年竣工、1610年、文禄・慶長の役で中断していたその後に増築している。1594年頃の計画では、櫓が重り合って景観のバランスが悪いので、現在の位置に変更、 細部でも意匠が異なっている。 ②『肥後宇土軍記』の記述あり。 ③大天守北側は、創建時には小天守がない、城の北東入口である不開門より本丸西隣の平左衛門丸へと続く通路 であった。再建天守の観光入口の橋下うを望む旧通路の階段が門扉も枡形もなく、直ちに小天守入口に続く構造を確認することができる。今は非公開。しかし、この階段を下ると裏 五階櫓跡と小天守の間に旧通路防ぐように石垣が築かれている。石垣下部には、高さ1メートル程の石門という通り道があって、不開門へと続く北帯曲輪へ出ることができた。石門や 堀や帯郭の清掃のため通用門口として利用されたが、過去には抜け穴や水抜き穴という説もあった。また、石門を抜けた左手にも同じ造りの石垣があり、こちらは宇土櫓へと続く犬 走りへ出ることができた。

石垣
清正は、特に石垣造りを得意、「この城」は、始め緩やかな勾配のものが上部に行くに従って垂直近くになる「武者返し」と言う形の石垣を多用している。ここの城での武者返しは、 慶長の役の際に朝鮮に建造、蔚山倭城は難攻不落だったので、これを基に築城技術「駆使」した。また「通潤橋」は、熊本城の武者返しの石垣をモデルにして架けられた。江戸幕府の仮想 敵として薩摩藩に対して建造されているため、南側は非常に堅固、その分北側はかなり手薄な構造。西南戦争で薩摩の包囲戦をしのぐことができたファクターの一つ。もう一つ、言うと長塀 の石垣の長さは日本最長である。
建物は漆喰壁に柿渋塗りの下見板張りの黒い外観が特色。天守以外の櫓や門の屋根には反りが少なく派風に破風には、直線かむくりが付けられている。多重櫓は全て望楼型である。五重櫓 は、---3重5階の三重櫓のこと。往時には現存する宇土櫓の他に、裏五階櫓、数寄屋丸五階櫓、飯田丸五階櫓、西竹之丸脇五階櫓の4基、本丸東五階櫓は後に三階櫓に改築した。しかし、大小 天守を除く合計6基の五階櫓があった。これらの五階櫓は他城の天守規模に相当する。これらは慶長年間に毛利藩が作成した熊本城略図に記載のない櫓(数寄屋丸五階櫓、西竹之丸脇五階櫓、本丸東 五階櫓)もあって、一石一城令後に肥後藩領内にあった南関・佐敷・内牧城の天守を移築したものではないかと、(伝文)
宇土櫓
五階櫓の中でも「三の天守」と言っている。3重5階地下1階で、大小天守を除いて最大の櫓。高さ19メートル有り、近世以前の建造物と比較して、姫路城、松本城、松江城、宇土櫓が4番目。破風は むくりを持ち、諸櫓と同仕様で建造している。しかし、最上階に外廻縁を持っている。清正の創建した初代天守では?という見方もある。宇土城の天守を移築との伝え。宇土櫓に関する最古の文献である 別井三郎兵衛『御城分間』のなかに、1666年(寛文 6)には「御天守西ノ御丸五階御矢蔵」とあり、同じく、寛文年間に作成された熊本城絵図には「平左衛門丸五階櫓」との記述がある。平左衛門丸には加藤 平左衛門の屋敷があり、小西の家臣であった者の管理をする施設も併設されていたため、平左衛門丸に建てられた櫓には、「宇土三階櫓(平左衛門丸二重櫓)」などのように「宇土」を冠していたことが『肥後録』 にある。

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   監物台樹木園   :熊本城の一角にあった監物台櫓の場所が、1952年植物園として開園した。大坪藤市が九州全体の営林署に声をかけて標本樹木を集めた。様々な植物の研究も国営であるため現在も行 っている。名前の由来は、熊本城主細川家家老職 長岡監物が、熊本城北の守りとしてこの地を固めていたことより。園内には、九州の郷土樹種である常緑広葉樹を中心に、各地の樹種を造園的に植栽している。他に 盆栽、草花等を合わせると141種類793分類、約2100本に及ぶ植物が植えられている。園内には森林植物があり、そこには、樹齢約1360年の屋久杉円盤が有る。森の図書室には、樹齢400年のタブの木の円盤をはじめ、 森林、林業、自然に関係する図書がある。その他に、薬草園、盆栽展示棚、フジ棚、チューリップ、バラ園等があり、それらの開花の季節には大勢の花見客が訪れる。開花の目安として、 ①サクラ 3月下旬~4月末 ②チューリップ 4月上旬~4月下旬 ③フジ 4月中旬~4月末 ④バラ 5月上旬~6月中旬。


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2013/3/30に、熊本城内のサクラを沢山撮った、10:21~11:18の間。