不忍池

不忍池

                       不忍通りを少し歩く                       


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       不忍池       

 上野恩賜公園の南端に在り、周囲ー約2km、全体の広域ー約11万㎡。その中央に弁財天を祀る中之島である弁天島を配置。遊歩の為に堤を3部分に分けており、其々を、一面が蓮で 覆われる→蓮池、ボートを楽しむ→ボート池、上野動物園の中に位置して、カワウが繁殖→鵜の池と成っている。名前の由来 弁天島の石碑によると、「不忍池」は、かって上野台地と本郷 台地の間の地名が忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来する。15C頃には「不忍池」と呼ばれていた。 

 1625年:江戸幕府は西の比叡山延暦寺に対して、この地に、上野寛永寺を建立。開祖慈眼大師・天海は、この池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ弁天島(中之島)を築かせ、そこに 弁天堂を作った。当時の弁天島は船で渡る島だった。1672年には、弁天島から東に向かって石橋が架けられ徒歩で渡れるようになった。 

 明治初期頃までは、池の形は現在とはかなり異なっていた。1884年、共同競馬会社による競馬場の建設に伴い、埋め立てがおこなわれ、ほゞ現在の形に出来上がった。池を周回する形で 作られた競馬場で1884年11月には天皇臨席のもと、第1回の競走が行われ、以降1892年迄、春と秋に競馬が行われた。1907年には、東京勧業博覧会のために、西方向に観月橋が架けられ、池の 中央を横断出来るようになった。1929年に、築堤工事により池が4つに分割された。1931年には、現在まで続く貸しボートの営業開始。現在、鵜の池となっている範囲は当時は2つの池に分かれ ていた。現在に至る。戦後の一時期水が抜かれて水田となった。→不忍田圃だ。1949年に池のまま保存することで合意がなされ現在に至る。1990年~1994年にかけては、水質浄化のため東京都建 設局によって層流多循環システム、曝気噴水ポンプ、生物酸化処理膜の設置などが集中的に行われた。 

 池の植物は、ボート池以外の部分は、ハスの繁殖が著しく、毎年池の南部はほゞ埋め尽くされる状況だある。 

       上野東照宮(上野恩賜公園内に在る神社)       

 旧社格は、府社。正式名称は、東照宮だが他の東照宮との区別から鎮座地名を付け上野東照宮と言う。ここは、徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る。 

       上野精養軒       

 1872年、三条実美や岩倉具視の援助により、築地にて「西洋館ホテル」を創業(精養軒の初まり)で、1876年に上野で「上野精養軒」を開く。フランス料理の老舗。