横井小楠

横井小楠


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横井小楠
小楠は、文章や字句の解釈だけでなく、現実に根ざした学問のあり方(実学)を説き、塾を開きました。越前藩主・松平春嶽により 福井に招かれ、殖産興業や財政の建て直しに大きく貢献し、春嶽が幕府の政事総裁になると小楠も江戸に同行し、相談役となり、西郷隆盛 、勝海舟、坂本龍馬らと共に、新日本誕生にふかくかかわった。「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と 西郷南洲だ。」(勝海舟「氷川清話」より)

                           その業績と生涯                            

1. 視野は世界に
日本がかってない大飛躍をなそうとするその前後、将来の日本の歩むべき正道(王道)を示そうと努力した人物、それが小楠だ。1809年(文化 -6)熊本城下の内坪井に誕生した人物、横井小楠です。横井小楠は、「国富だけではいけない(だめ)、また軍備増強するだけでもだめ。地球上 で一番大切なのは、お互いにその立場を認め合って、お互いがお互いを許す寛容の精神がなければならぬ」と説いたのでした。
2. 現実に根ざした学問
肥後藩には時習館という藩の学校があって、そこで小楠は成績抜群、1837年(天保-8)には塾長に抜擢。その2年後には江戸遊学を命令され、水戸 藩士藤田東湖などと共に議論を戦わせていたが、酒の上で失敗して呼び戻された。熊本に帰った小楠は、長岡監物、下津休也、荻昌国、元田永孚らと 研究会を始め、文章や字句の解釈だけに力を注いでいたその頃の肥後の儒学に対し、現実に根ざした学問のあり方を示しました。これが実学党と呼ばれる ものの起こりです。やがて、小楠は塾を開きます。そこに一番に入門したのが徳冨一敬(蘇峰・蘆花の父)でした。竹崎茶堂(律次郎)、矢島直方(竹崎 順子、徳冨久子、横井つせ子、矢島楫子の兄)が続いて入門しました。1849年(嘉永-2)越前藩の三寺三作という武士が諸国遊歴の途中、小楠を訪問して、 その説に大変感激して、福井へ帰って行った。越前藩は小楠に学校について教えを乞いました。1852年(嘉永-5)の「学校問答書」という建白書が書かれました。 この教育論には吉田松陰も大変感心し、長州藩にも推薦しようとしました。
3.吉田松陰、坂本龍馬も訪れる
吉田松陰は、ペリーが浦賀に来た1853年(嘉永-6)の10月、小楠を訪ねて来て、終日話し合っています。1855年(安政-2)沼山津に転居した小楠は、この住まいを 四時軒(しじけん)と称してまた塾を開きました。主張するところは攘夷論から開国論へ移っていきます。越前藩主松平春嶽からの招きで、1858年(安政-5)から 福井に行くことになります。やがて松平春嶽が幕府の政事総裁になったので、小楠も江戸に出て春嶽の大事な相談役をつとめ「国是七条」も建言した。ところが、 江戸詰めの肥後藩士と酒宴中に暗殺団に襲われ、同僚を見捨てて逃亡というので、肥後藩から罰され、沼山津に一平民として暮らさねばならなくなった。下関砲撃事件や 薩英戦争等、時代はめまぐるしく変転していた1863年(文久-3)のこと。しかし日本はその小楠を捨ててはおかなかったのです。勝海舟の使いで、坂本龍馬が訪ねてきた。 1866年(慶応-2)には勝海舟のはからいで、2人の甥 横井佐平太、太平をアメリカに留学。
4.明治新政府の要職に
維新になると新政府は、横井小楠を参与という位で京都に呼び出したのです。岩倉具視は、木戸、大久保、らの参与の中でも、特に小楠を頼りにしていて、夜を日に ついで相談したものです。小楠は、まさに新日本の政治家として重要な地位にあったのです。しかし1869年(明治-2)正月5日、太政官に出仕して退朝する途中、暗殺者たちに 襲われ、短刀を抜いて防ぎましたが、病体でもありついに力尽きて倒れた。時に、横井小楠61歳でした。墓は京都南禅寺の天授庵にあり、遺髪は熊本に持ち帰られ小楠公園に 葬られています。
市指定有形文化財 市指定史跡 所在地
四時軒 四時軒跡 熊本市東区沼山津1丁目25-91:横井小楠記念館

横井小楠記念館・四時軒


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横井小楠と勝海舟
1864(元治-1)/02/20に勝海舟が長崎へ行く途中で坂本龍馬を使いとして、沼山津の四時軒に住んでいた小楠を訪れさせています。その勝海舟は「氷川清話」の中で「おれは、 今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ。横井は、西洋の事も別に沢山は知らず、おれが教えてやったくらゐだが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とて も梯子を掛けても、及ばぬと思った事がしばしばあったョ。」と語っているくらい尊敬していました。この時に小楠はアメリカ土産の短刀を貰っています。小楠の門弟たちも海舟の海軍塾に入門 しています。
横井小楠と坂本龍馬
坂本龍馬との出会いも江戸の福井藩邸でした。1862(文久-2)/12/15の頃でした。小楠の考えへ良くないので場合によっては斬ろうと思っていたそうだ。でも、あってみると、小楠の考えの深さ に感動して尊敬するようになりました。その後、福井でも会って由利公正を紹介しています。士道忘却事件により沼山津に引き籠っていた小楠を龍馬は3度訪ねている。熊本城近くの宿から10kmほどを 歩いて来ています。彼等が会うと話は常に、国事の事でした。最後に会ったのは1864(慶応-1)/05/19で、龍馬は薩長同盟に奔走している頃。後に龍馬はお兄さんへの手紙の中で「すぐれた人物」と評価し、 明治政府のリーダーの一人として推薦している程です。
暗殺
1868(明治-1)年、明治新政府に参与として出仕するが翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で暗殺される。61歳のこと。:殺害の理由は「横井が開国 を進めて、日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったと言われている。しかも弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が裁判において書いたとする『天道覚明書』を 作成して横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥った。紆余曲折の末、実行者であった十津川郷士ら4名が1870年(明治-3)に処刑される事となった。
十津川郷士
奈良県の十津川郷に在住していた郷士集団、幕末になると、上平主税などを筆頭に勤王の志士となるもの多く、また千人を超える兵を動員できる力を期待され、過激派の公家の思惑などから薩摩、長州、土佐等と 並んで宮廷警護を命ぜられた。天誅組の変時に、多くの郷士が参加、後に、朝廷より「天誅組は朝廷軍隊ではない」と正式判断が下され離脱。その後、大総督官直属の朝廷御親兵として戦いに出た。維新後は全員士族 となった。だが、上平など一部過激派は明治新政府の近代化政策に反発して横井小楠を暗殺事件など起こした。なお、新政府の要人である横井小楠暗殺事件で島流し、(島流し刑の最後の例)となった上平主税が伊豆 新島への終身流刑(約10年後特赦)となった際、流刑船内で同じく島流しとなる新撰組最後の局長・相馬主計と出会った。上平と相馬は、相馬が先に、赦免されるまでの2年間、親しく交際していたと伝聞。

二甥への小楠「送別の語」


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