仙巌園
仙巌園
仙巌園(別名:磯庭園)
鹿児島市吉野町磯にある薩摩藩主島津氏の別邸跡とその庭園、敷地面積 約5ha。第19代当主島津光久は、関ヶ原の戦いで、敵中央突破を敢行した島津義弘の孫に当る人物。余り
多くの方々に知られていないようですが、旧薩摩藩内で見られる六月灯は光久が、始めた行事であるとの伝。また、薩摩藩の永野金山は、光久の時代に発見。1658年(万治-元)、光久は
家老 鎌田出雲守の旧宅だった鹿児島城下北部の大磯下津浜門屋敷を御用地に定め、御仮屋を築きました。これが、仙巌園の始まり。ここの名前は、中国江西省の景勝地にある龍虎山
仙巌にその景色の類似性より由来する。光久は、1672年(寛文-12)に屋敷の南に一亭を築いて、翌1673年正月に同亭内で落成の宴を催した。するとその際、2羽の鶴が庭先に舞い降りた。
それで、これを嘉瑞として「喜鶴亭」と呼ぶようになった。この時代に、錫門・望嶽楼が建てられたとの伝。ここの庭園は光久以後も歴代当主により改築が重ねられてきた。借景技法を
用い、桜島を築山、鹿児島湾を池に見立てた素晴らしい景色と広大な庭園なのである。1958年(s-33)に国の名勝に指定されている。
尚古集成館
幕末、28代島津斉彬は日本を強く豊かな国にするため、工場群「集成館」をつくりました。この工場群は1863年の薩英戦争で焼失しますが、その後、29代忠義と実父久光により再建されました。
この時建てられた機械工場は後に博物館に造りかえられます。それが尚古集成館本館で、1923/05/22に、開館。館内には、島津家の歴史や海洋国家薩摩、そして斉彬のはじめた近代化事業についての
展示がしてある。その他には、薩摩切子、薩摩焼などの展示。
集成館事業
1820年代には、植民地化政策を採る西欧列強は、アフリカ・アラビア・インド・東南アジアを経て、南から中国・日本へと迫ってきた。このため、日本最南端を統治する薩摩藩はその矢面
に立たされた。1824年(文政-7)の宝島事件や1837年(天保-8)のモリソン号事件、1840年代のイギリス・フランス艦隊の琉球来航などは、薩摩藩内で起こった日本と西欧諸国との接触の最たるもので
ある。当藩では1840年代に、西欧の科学技術を導入して海防体制の強化が図られていた。1851年には斉彬は、海防強化をさらに進めるために、磯地区に反射炉やガラス工場など次々に建て、一連の
工場群を「集成館」と総称した。いすれの事業も蘭学書のみが頼りであり、斉彬は藩内の蘭学者だけでなく、幕府・諸藩の蘭学者を招聘し、研究に当らせた。その上、不足している西洋技術は日本
在来の技術を改良する形で補足して、独自の設備を構築していった。
斉彬の死後は、藩主に就任した忠義と久光(忠義の実父)は、斉彬の意志を継続して、富国強兵を推進した。その為に、使節・留学生をイギリスに派遣するなど、そうして、最新の技術・機械
を入手、技術者を薩摩藩に招いた。集成館機械工場は1865年(慶応-元)に、鹿児島紡績所は、1867年(慶応-3)に竣工した。薩摩藩は、日本最先端の工場施設・技術力を所持するようになった。
幕末、この藩はこれらの技術力を背景に、倒幕運動を牽引することになる。そして明治時代になると、集成館事業で活躍した人物が日本国内の工場に技師として招かれて、指導者となった。集成館
は近代産業の基礎を築き、全国に富国強兵を広げた原点なのである。特に、製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から西洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業展開。
この当時、佐賀藩など各地で、近代工業化が進められていたが、斉彬の集成館事業は、軍事力増大だけでなく、社会インフラの整備等幅広い分野まで広がっている点が他藩と違っているところで
ある。
1865 機械工場として集成館が竣立。
1959/02/25 敷地が国の史跡に指定。(「史跡・旧集成館」)
1962/06/21 建物が重文指定。(「重文 旧集成館機械工場」)
1990/03/29 別館開館。
2005/10/06 尚古集成館本館を改修し、新装開館。