中津城
中津城
築城 426年
黒田、細川、小笠原、奥平氏とつづく居城跡。中津城は豊臣秀吉より豊前6郡を拝領した黒田孝高(如水)が山国川河口(現在 中津川)の地に築城したのが始まり。
城郭の形が扇の形をしていたことから「扇城」とも。現在の天守閣は昭和39年に建設された。なお、黒田孝高(如水)は、中津16万石を拝領して天正16年(1588)、中津川河口周防
灘に臨むこの城を築く。地形が北→南に扇状に広がる。本丸は石垣、内濠は当時のままで水門より海水が入って、潮の干満で濠の水が増減している水城です。
築城当時は、天守は不明。江戸時代の絵図には天守が描かれていない。黒田孝高(如水)の手紙には「天守に銭を積んで蓄積した」とあり、その天守の存在を窺わせる
データも有。江戸時代後期の「中津城下図」→中津川沿岸の本丸、鉄門脇に三重櫓が描かれているのみ。
堀・石垣については、残存。黒田孝高(如水)が普請した石垣は、1588年に普請されたままに現存する近世のお城の石垣として九州最古である。本丸上段北面石垣は、
黒田氏の石垣に、細川氏が石垣を継いだ境界がある。本丸南の堀と石垣は中津市によって修復復元されたもの。
奥 平 氏 について
戦国時代に三河北東部の作手地方を中心に活動した氏族である。家伝によると、上州が発祥地、その後、上州の所領を放棄する。⇒三州に新天地を求めて転住したとの伝。
その三州転住後、奥平貞昌の大叔父、叔父、弟、生男の4世代で支族を分出するが、それでも細々と命脈を保っているという境遇に変化なし。そこで宗家は、彼らを独立より、奥平氏の
重臣として厚く待遇する。そして、奥平一族の弱体化を防止した。奥平氏一族の12家が、七族五老と呼んでいる。これらが、奥平氏の家老衆となる。また、江戸時代には奥平氏は大名と
なり、下野国宇都宮10万石を拝領する。後に、豊前中津10万石を移領し、廃藩置県時まで存続した。
徳川御連技 奥平家居城 中津の歴史
享保2年(1717)、第八代将軍徳川吉宗公から西国の抑えを期待され、徳川御連技奥平家第七代奥平昌成公が豊前中津に入府した。丹後宮津から1万石加増の10万石での
栄転であった。以後、明治4年(1871)に奥平家十五代昌邁公が廃藩置県を迎えるまで、154年間に渡り中津奥平藩主の居城として城下町中津の繁栄を見守り続けた。廃藩地県の際、藩士
福沢諭吉の進言により城内のほとんどの建造物が破却され、御殿だけが小倉県中津市庁舎として存続。しかし、明治10年(1877)の西南戦争の際、その御殿も焼失してしまった。それから
長期間を経て、昭和39年(1964)、旧藩主奥平家が中心となり、中津市民から寄付も合わせ天守閣を建造。奥平家の歴史資料館として、中津市民に愛され続けている。
展 示 寶 物
藩祖を祀る奥平神社所蔵の歴代藩主着用鎧、天下御免白鳥の槍、陣営道具、衣裳、長篠合戦図、鳥居強右ェ門磔図、徳川家康親筆軍法事、吉宗花押領地目録、等 由緒ある著名
な宝物をはじめ奥平家刀剣録、藩臣録、士族分限帳馬術、柔術、剣術、槍術、各師師範奥伝の書、絵画、古文書(家康親書)鷹狩り道具などを展示。