官兵衛

官兵衛

                       官兵衛と崇福寺                       

     崇福寺     


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山号 宗派 本尊 創建年 開基 別称
横岳山 臨済宗大徳寺派 釈迦牟尼仏 1240年(仁治-元) 湛慧 勅賜萬年崇福禅寺

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                       山 門                        

     旧福岡城の表御門を移築したもので、黒田家の関わりの深さがうかがえる。山門・切妻造、本瓦葺の二階建てで、左側の潜戸があるため扉は中央よりやゞ右側に設け られている。これも、福岡城本丸の表門として使用されていた面影だ。県指定文化財の建造物。     


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               山門前の案内板の内容をコピー・ペー(歴史)                

 当寺は、詳しくは、「横岳山勅賜萬年崇福禅寺」といい、臨済宗大徳寺派に属する。1240年(仁治-元)筑紫郡大宰府町横岳の地に随乗坊湛慧禅師によって創建された。1241年、聖一 国師が宋の経山仏鑑禅師より授かった「勅賜萬年崇福禅寺」の八文字を堂々と掲げ、ここに崇福寺は名実共に成立した。1586年(天正-14)、岩屋城落城(島津、大友氏の戦)の際、兵火に よって堂塔伽藍、重寶、什器等創建以来、三百五十余年にして勝禅院にみを残し、悉く烏有に帰したが、その跡に近年、仏殿、開山堂、禅堂、侍物寮、書院、山門、中門等が大宰府別院と して再興された。1600年(慶長-5)黒田長政公が筑前国主となり、大徳寺春屋和尚の請により復興を計画、大宰府は不便につき現在地に移し、雲英、江月、江雲和尚の三代にわたり総門、御成 門、山門、仏殿、方丈、庫裡、書院、衆寮、開山堂等の伽藍が造営再建され、1612年(慶長-17)、博多の巨商 島井宗室の寄進により塔頭瑞雲庵(開山大応国師)を再興。1615年(元和-元)、 心宗庵(当時5世、大徳寺開山大燈国師塔所)再興。1624年(寛永-元)に、久野重剛が壇越となって正伝庵(大徳寺一世大現国師塔所)再興。又、長政公より寺領として三百石、開山堂領と して五十石寄進され、境内は東西が馬出口より石堂際、南北が大通りより海浜までと広大な寺領地を有し、大徳寺末、筑前の触頭寺院として末寺、末々寺、合わせて37ヵ寺を配下に置き 並べ、歴代藩主の菩提寺として面目を保ったのである。明治になると大政復古となり、本寺も無禄無壇の為、荒廃して、1878年(m-11)には、三塔頭も崇福寺に合併廃寺となった。1895年(m-28) には、玄外和尚が当寺に住されるや、境内の整備をされ、1906年(m-39)、当寺の本堂を移して、心宗庵を再興、更に崇福寺に本堂、庫裡再建。そして、福岡城より本丸表門を譲り受け、山門 とするなど伽藍再建に尽くされた。又、1931年(s-5)には、維精和尚により開山堂が増築され、1935年(s-10)には、鈍外和尚によって雲水(修行僧)の育成機関として専門道場が設けられる など旧観に復することが出来た。 平成4年1月1日 山主 白 


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                       心 宗 庵                       

     開基の墳墓である。外にはお地蔵さん。     


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                       禅 堂                       

     雲水(修行僧)の育成機関としての専門道場である。     


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                       衆 香 国                       

     事務所・接待所であり、玄関には仏壇がある。     


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                      唐 門                       

     旧名島城の遺構であるとの伝。桃山時代の作柄をそのままでではなく、江戸時代初期に改築されたものと推定。福岡市内に残る最古の唐門で県指定文化財の建造物。     


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             黒田孝高 (黒田如水/黒田官兵衛)について。             

時代 生誕 死没 改名
戦国時代~江戸初期 1546/12/22(天文-15/11/29),グレゴリオ暦1547/01/01 1604/04/19(慶長-9/3/20) 万吉(幼名),小寺孝隆,黒田孝高,如水軒(号),如水円清(法名)
別名 戒名 霊名
祐隆(別名),官兵衛(通称),小官,黒官(略称),黒田の瘡頭(渾名) 龍光院殿如水円清大居士 ドン・シメオン
墓所 官位
福岡市博多区千代の崇福寺,京都市北区の大徳寺塔頭龍光院 従五位下勘解由次官
主君 氏族 父母
小寺政職→織田信長→豊臣秀吉 小寺氏,黒田氏, 自称 宇多源氏 父:黒田職隆, 母:明石宗和の娘(小寺政職の養女)
兄弟
孝高,浦上清宗室,浦上誠宗室,利高,香山妙春(三木通秋室),虎(妙円・尾上武則室),利則,直之,一柳直末室
正室:櫛橋伊定の娘・光(てる)→(幸円) 長政,熊之助(養子),一成(加藤重徳の次男),松寿丸

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                       軍師 官兵衛として                       

 1567年(永禄-10)頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、櫛橋伊定の娘を正室(光(てる))に迎え、姫路城代となった。1569年8月に、三好三人衆の3000の兵が姫路城を攻め込むが、孝高 は奇襲攻撃を仕掛けるなど、300の兵で2度にわたり戦い、撃退に成功。その後、織田信長が包囲網を引き、優勢となる、しかし、病気ため弱体化するが、勢力を盛り返す。1575年(天正-5)5月、信長 の才能を高評価していたので臣従を進言し、7月に羽柴秀吉の取次により、岐阜城で信長に謁見。さらに年明けには主君・小寺政職にも、赤松広秀、別府長治らと揃って京で謁見させる。1576年~1577年には 信長に離れる丹波の武将もでたり浦宗勝を毛利と同盟する播磨の三木通秋所領である英賀に上陸させるが、孝高は500の兵で毛利・三木軍5000の兵を退ける→英賀合戦を行っている。この戦の後、松壽 丸を人質として信長の元へ送っている。信長は10月には信貴山城の戦で松永久秀を討伐し、秀吉を播磨に進駐。孝高は一族を父の隠居城に移らせてしまい、居城(孝高の)であった姫路城を秀吉に提供し 自らは、二の丸に住まい、参謀として活躍するようになる。月末には秀吉は、羽柴秀長(弟)を太田垣景近の攻撃(但馬の竹田城)に向かわせる。→11月4日落城。秀吉本隊は赤松政範の上月城攻めに孝高は 従い、佐用(福原城)攻め→11月26日へは竹中重治(半兵衛)らと共に加わり先陣を孝高は勤めている(上月城の戦)。1578年(天正-6)3月、三木合戦が起き、これに毛利氏が呼応する。4月、海から宇喜多直家 軍7000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には黒田孝高が救援し、1000の兵で防ぎ退ける。しかし、7月に本隊は信長指示に従い、上月城を放棄、書写山まで撤退。双方の調略も増々 激化。9月に孝高は直家を調略に成功。次に、信長の重臣である荒木村重が謀叛(有岡城の戦)、10月には、孝高は村重を翻意させるため交渉に有岡城に乗り込んだが不成功に終わった。遂に幽閉される。1年後 有岡城は開城し、孝高は栗山利保に救出。秀吉は2年間の難攻の末ようやく三木城を陥とした。孝高の主君の政職も、織田信忠によって討伐され鞆の浦へ逃れ戦国大名としての小寺氏は滅んだ。織田家臣 として秀吉の与力となり、孝高が名字に黒田を用いたのは、これ以降と考えられる。秀吉は三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播磨統治の適地である」と進言。7月、秀吉 より姫路城普請を命じられる。9月福井荘(網干附近)に1万石を与えられる。1581年(天正-9)6月、秀吉は第二次鳥取城攻めをする、孝高も参加。策略を計る、若狭国などの商人が周辺の米を買占めた上で完全に 包囲して補給路を絶ち、兵糧攻めを行ったため、鳥取城内は飢饉で凄惨極まりない状況に追いこまれ(鳥取の渇え殺し)3ヶ月で降伏を余儀なくされたが、城中に備蓄米が少ないことを見抜き、この作戦を秀吉に 献策したのは孝高だったと言われる。同じ時期、備中高松城攻略でも、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈める ように献策し成功させたと言われる。→策略家でもあった。この最中の6月2日、京都で明智光秀による”本能寺の変”が起こり、信長横死。これを知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つ ように献策し、中国大返しを成功と言われる。山崎の戦いでは天王山を迎え、その裾野から射撃を仕掛ける中川清秀を追い落とそうとする明智軍と激しい戦闘を繰り広げた。9月頃より毛利氏に対し、宇喜多氏と 国境線確定の交渉に蜂須賀正勝とともに入る。1583年(天正-11)、大阪城の縄張りに当る。秀吉の賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることになったが 、奮戦し守り抜いた。小牧・長久手の戦の当初においては、大阪城で留守居役を務めている。黒田長政らは、岸和田の戦いで根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親らの兵を破った。7月、播磨国宍粟郡(山崎)篠の丸 城を与えられ5万石の大名となっている。1585年(天正-13)の四国攻めには、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家の軍勢の軍監として諸城を陥落させていった。孝高は植田城に対してはこれは囮であると見抜いて 阿波国へ迂回するなどと、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波国の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退、降伏した。この頃に、孝高は高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト 教に入信している。1586年(天正-14)、従五位下勘解由次官に叙任された。1586年10月に、大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利などを含む軍勢の軍監として九州豊前に上陸。そして、宇留津城、香春岳城 などを陥落させる。1587年(天正-15)3月に秀吉の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献している。これを根白坂の戦いと。戦の後は、石田三成と共に博多の復興(太閤町割り) を監督している。九州平定後の1587年7月3日、本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡(但し宇佐郡の半郡は大友吉統領地)、およそ12万石(太閤検地後17万石以上)を与えられた(その直後に中津城の 築城を開始す): この項目は長政の項で。1590年になると、その後、家督を嫡男・長政に譲り、孝高は秀吉の側近として仕えた。1590年(天正-18)の小田原の陣では、北条氏政・氏直父子を小田原城に入って説得し 、無血開城させる功績を立てた。1592年(文禄-元) 文禄の役ー朝鮮出兵では、総大将・宇喜多秀家が軍監として参加した。しかし、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配執行出来ず、病気と称して帰国。1593年 3月15日、日本軍は明軍の参戦と補給の行き詰まりにより和平模索中に、再び朝鮮に渡ったが、石田三成などとの間に確執が生じて東菜城より、5月21日再帰国したが秀吉の怒りを買って追い返されている。6月、第二次 晋州城攻防戦においての後藤基次らが用いた鼈甲車の設計や和式城郭の縄張りなどに携わっているが、「如水 円清」と号して出家。1597年(慶長-2)の慶長の役では総大将・小早川秀秋の軍監として釜山に滞陣。第一次 蔚山城の戦いにおいて、加藤清正の救援に向かった黒田長政が留守をした梁山城が8000の軍勢に襲われた際、救援に駆け付けた1500の兵で退ける。両城にて大勝を収め、また今回の戦いを踏まえて戦線縮小を図った。 しかし、これらを福原長堯などの軍目付たちが酷評して秀吉に報告した。秀秋、長政、蜂須賀家政など、多くの武将が叱責や処罰を受ける事となった。一方、軍目付たちは豊後国内に加増となった。1598年(慶長=3)8 月、秀吉死去。この頃、如水が上方情報を知らせてきた吉川広家宛に「かようの時は仕合せになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候。」と書いた書状が残されている。これは、如水が遠からず 天下の覇権をめぐって最後の大乱が起きるであろうことを予想していたことを窺わせる。12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。1599年(慶長-4)1月、生前秀吉が『大坂城中壁書』にて制限した大名間の婚姻と私的な 交流に徳川家康や福島正則らが抵触すると、それを詰問した前田利家を筆頭とした、他の石田三成らが大老・奉行衆と緊張が高まる。この時に蜂須賀家政や藤堂高虎らと共に家康方に参加。3月、利家病死すると、利家 方であった加藤清正や細川忠興らを引き込んで、長政ら七将が三成襲撃事件を起こす。家康の仲裁により、三成は領国の佐和山城に退出し、長政や家政の朝鮮での罪科はは誤審と裁定された。1600年(慶長-5)6月2日、 家康が上杉景勝(会津藩)討伐を諸大名に命令。黒田長政は家康の養女(栄姫)と再婚し、6月16日に家康と共に出陣。7月17日(8月25日)三成が家康を非を鳴して西軍挙兵し、関ヶ原の戦いが起った。黒田長政は豊臣恩顧の 大名を多く家康方へ引き込み後藤基次ら黒田軍の主力を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げた。中津に帰国していた如水も、家康方に対し、前以て味方として中津城の留守居を密約を結び行動した。三成の挙兵の知らせ用 意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金庫を開いて領内の百姓などに支度援助金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9000人ほどの促成軍を作り上げた。9月9日(10月15日)、再興を目指して 西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の忠興の飛び地(本拠地は丹後国宮津)である杵築城を包囲攻撃した。城将松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と と公称した兵力を率いて出陣した。それまでは三成の誘いに対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせ、準備期間を稼いでいたという。道中の諸城を攻略した後、9月 13日(10月19日)、石垣原(現在:別府市)で大友義統と衝突した。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に敗れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した→(石垣原の戦)。9月19日(10月25日)、 富来城の攻略中に哨戒船が東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、西軍破れた→報告に接する。その後、如水は、藤堂高虎を通じて家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属していた太田一吉 の臼杵城(佐賀関の戦い)などの諸城(熊谷直盛の安阜城、毛利高政の角牟礼城と日隈城、毛利勝信の小倉城、毛利信友の香春岳城など)落としていった。国東半島沖の豊後水道附近では水軍が、関ヶ原より引き上げてきた島津義弘の 軍船と戦い(義弘に同行していた立花宗茂は降伏し如水軍に加わる。11月に入り如水は立花宗茂、鍋島直茂、加藤清正を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日、水俣まで進軍したとき、家康と 島津義久との和議成立により停戦命令を受け、軍を退き解散した。関ヶ原の合戦の後、長政が先に勲行ととして家康から筑前国名島(福岡)32万6000石(再検地後の申請は52万3000石)への加増移封となった。1601年、如水にも、 これとは別に上方での加増が提示されたが辞退して、その後は中央の政治に関与することなく隠居の身分を送った。晩年は再建に努めた太宰府天満宮内に草庵を構えている。1604年4月19日(慶長-9・3・20)に、京都伏見藩邸で 59歳で死去。死の間際、如水は「神の子羊」の祈祷文及びロザリオを持ってくるように命じ、それを胸の上に置いた。そして次のように遺言した。自分の死骸を博多の神父の所へ運ぶこと、長政が領内において神父たちに好意を 寄せること、イエズス会に2000タエス(金額の単位)を与え、内、1000タエスを長崎の管区内に、1000タエスを博多に教会を建てるための建築資金に充てること、である。4月のある夜、午後10時半頃、博多の教会の宣教師たちは 如水の遺骸を、博多の町の郊外にあって、キリシタン墓地に隣接している松林のやゝ高い処に埋葬した。主だった家臣が棺を担い棺の側には、長政がつきそった。如水の弟は熱心なキリシタンであった黒田直之が十字架を掲げ直之 の息子と、徳永宗也の甥が松明を持ち、ぺロ・ラモン神父とマトス神父は祭服を、修道士たちは白衣を着ていた。墓穴は人が200人入る程のおおきなもので、その中に着いた宣教師たちは儀式を行い、それから如水を埋葬した。同夜 、長政は宣教師のもとを訪れ、葬儀の労を謝し、翌日には米500石を贈った。その15日か20日後、長政は仏式の葬儀も行っているが、その詳細は分からない。如水の死後2年目、如水の追悼記念聖堂が完成する。1606年4月28日(慶長- 11・3・21)から翌日にかけて、宣教師たちは荘厳な式典を行った。それは、聖堂の献堂式に始まり、2日目には如水の追悼ミサが執り行われ、これには長政や重臣たちも参列した。ミサの後、長政は、宣教師たちを福岡城に招いて 宴を設け、照福院は教会のため特別な寄付を行ったという。 


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                      長政にもこんな事が                       

 1587年(天正-15)7月に佐々成政が肥後国の仕置に失敗して、隈部国人一揆が起きたため、孝高が鎮圧のため援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも野中鎮兼ら国人勢力が肥後国人に呼応、また伊予国への転封を 拒否した城井鎮房が城井谷城で挙兵し、大規模な反乱となる。長政が城井谷に攻め込んだが山岳戦を得意とする城井軍に敗戦した。→(城井谷崩れと称す) その後、黒田父子は持久戦を取り、兵站を断ち徐々に鎮圧していき、鎮房の13 歳になる娘・鶴姫を人質とする事を条件に和議を結ぶ。1588年(天正-16)孝高が鎮房の嫡男・城井朝房を伴い肥後国に出陣した際、長政は鎮房を中津城に招き、酒宴の席で鎮房を謀殺した。そうして孝高が朝房を暗殺した。鶴姫は13人 の侍女と共に磔にされ殺害された。こうして1589年(天正-17)までに、城井氏らを謀殺することとなった。その後、討死にした鎮房の家臣たちは、合元寺に祀られるが、寺の外壁が幾度塗りかえても赤く血のりが浮き出てくるため壁を 赤く塗ったと言われている。 


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                        <号> : ルイス・フロイスの記述                       

 官兵衛は剃髪して、予の権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、それらすべては今や水泡に消え去るように去って行ったと言いながら、ジョスイ すなわち 水の如し、と、自ら名乗った。 


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   ※ 官兵衛に関連するマイホームページには、「飾り山笠②」・「中津城」・「日曜日」の3件有ります。