大江天主堂
天草ロザリオ館
100年前には、こんな建築物はなかったが、
1587年、キリシタン禁教令が発布され、以来、1873年のキリスト教解禁迄、厳しい耐え忍びを約300年間その信仰の灯を守り持続してきた隠れキリシタンの遺物300点、その当時の姿が今に映える。
大江天主堂
あこがれの宣教師 パアテルさん(仏:ルドヴィコ・ガルニエ神父) 天草の人たちはパアテル(pater:ラテン語)<父さん>と呼んでいた。五足の靴の最大の目的はこの宣教師を訪問することであった。それは、仏人宣教師が"天草"という異国の地 ひっそりと信仰の灯を灯し続けている姿に5人の若者は強烈な印象を覚えたのでしょう。島原天草の乱後も、隠れキリシタンとして島民の信仰は堅く守られていた。1873年のキリスト教解禁と同時に布教が始まり、1879年には教会を建設、古材を寄せ集めた粗末なもので、5人は当時は、民家風の建物を訪れていた。現在のこの白い教会は1933年、ガルニエ神父の手で建設されている。
吉井 勇が今から59年前(1952年)再度、天草に訪れてガルニエ神父に会っている。初めは、異国情緒を唱えて南蛮文学に関心し始めことだったので、目的は、キリシタン遺跡を尋ねること、平戸・長崎その後天草で大江天主堂のパアテルさんより旧教の歴史を聞くことだった。
教会[1]
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ガルニエ神父像
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教会[2]
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『東京ニ六新聞』の1907/08/25連載中より タイトル「大江村」:「御堂」はやや小高い丘に所在。パアテルさんは唯一人飯炊男の「茂助(もうすけ)」と共に棲んで15年も大江村に居る。天草言葉がなかなか巧い。「茂助よか(善か)水を汲んで来なしゃれ」と飯炊男に汲んで来させ、それから「上にお上がりまっせ」と懇ろに勧められた。5人が旧教の歴史について乞ふとそれに任せて、昔の信徒が秘蔵した聖像を彫むんだ小形のメダル、クルスの類を見せて呉れた。これらには、それぞれ説明が付いていて、「サンタクルスは300年前より大江村のキリシタンの内に、隠し、守った尊いクルスなのだ、これを野中で発見した。」と書いてある。この種のデザインは、上野博物館にあった様だ。その他パアテルさんは色々なことを教えてくれた。大江村は、天主教徒の最多の所だから島原の乱後は、大抵の家は江戸幕府から踏絵の「二度踏」を命じられた場所。之で以て、大抵の村人は仏教に転向、唯この山上の2、30の家が依して今に至るまで「ディウス」を守っているそうだ。彼等は今尚クルス聖像の類を秘かにして容易に人に示さない。柱・棟木の内に封じ込んでいたりしていた。信者は信者同士でないと結婚しない。信者以外のものと結婚するとしても、それは一度信者に成った上でないとだめだった。今では、仏教を信じている者でも、家に子が出来た時には、洗礼をさせ、死んだ時点で、一応仏式を採用して、その後再度、旧式のキリシタンの儀式を行ったらしい。棺も寝棺、内服装-当時の信徒の風習に従う。 5人は「パアテルさん」に導かれて礼拝堂を見た。万事「瀟洒」にして整頓してあった。
ルルド聖母案内
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ベルナデッド洞窟のそば
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聖母マリア出現
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ルルドの説明
ルルドはピレネー山脈の麓、フランス南西部オート・ピレネー県 15000人の町、1858/02/11、ベルナデッドが郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いの折、初めての聖母マリア出現したのを伝えた。「無原罪の御宿り」---ルルドの方言にて 「ケ・ソイ・エラ・インセクラダ・セプシウ」 ルルドの方言 (Que soy era immaculada Councepciou) フランス語 (je suis I'immacule'e-couception)ーーー私は無原罪のやどりである。
続き:マリア像の後に赤き旗に、「天使の皇后」「聖祖の皇后」と記。この時分、大江天主堂に集う人数は、この御堂建設後、27年間に新しく帰依した人だが、大江村に453人、「パアテルさん」が一週間交代で行く崎津村には459人が居た。尤も天草一揆時代から続いている昔の信者の家々も教会に集まって来なくても、一週一日の礼拝日は堅く守って、当日は、汚れ仕事は一切行わなかった。何という間違いか、日曜日ではなく、昔から土曜日だったそうだ。
1907年の与謝野 寛の感想:大江村は、非常に薩摩に似ていて、兎に角、辺鄙な所である。三面山に囲まれ、目前は海、猫額大の平地に甘藷畑である。これと、麦飯がこの大江村人の常食である。
5人の旅の体験より:紀行文「五足の靴」木下杢太郎:詩集「天草組」北原白秋:「天草雅歌」、「邪宗門」 五人の南蛮文学、後の創作活動や人生に多大なる影響を与えた。