所在地 | 主祭神 | 社格 | 創建 | 本殿の様式 | 例祭 | 主なる神事 |
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福岡市東区箱崎1-22-1 | 応神天皇・神功皇后・玉依姫命 | 式内社・(名神大) 筑前国一宮 旧官幣大社 別表神社 | 921年(延喜-21) | 流造様式 | 放生会(9月15日) | 玉せせり(1月3日)、春期日祭(春分に近い戌の日、秋期日祭(秋分に近い戌の日) |
社名 |
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箱=「はこ」の字は円筒状の容器を意味する「筥」が正字であって「箱」ではない。ただし、地名・駅名は筥崎八幡宮に対して恐れ 多いという理由で「箱崎」と表記。 |
歴史 |
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921年(延喜 21)6月21日に八幡神の託宣があり、筑前国穂波郡の大分宮を玄界灘に面した土地に移したのに始まる。923年(延長 元)に現在地 遷座。『延喜式神名帳』⇒「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記録されて、名神大社に列していた。 元寇の際に亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、神門 に「敵国降伏」の扁額を掲げられた。以来、海上交通・海外防護の神として信仰。近代社格制度のもと1871年(m-4)に官幣中社に、1914年(t-3)、官幣 大社に昇格。 |
石造一ノ鳥居 |
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黒田長政により1609年(慶長14)に建。鳥居の柱は3つに切れ、下肥りとなり台石に続く。笠木島木はひとつの石材で、貫と笠木の長さが同じ。 筥崎鳥居と言う。 |
石燈籠 |
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数ある石燈籠のうち、火袋の底に1350年(観応 元)の銘が刻まれているものが、千 利休より1587年(天正 15)に寄進されたものと伝言。 |
唐船塔 1983/09/15 市政ダヨリ :父を慕って海を渡る:より |
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筥崎宮には、一の石鳥居や本殿など重文のほか、に数多く遺跡がある。境内入口近くの三重石塔がそれ。謡曲唐船に関係あり、昔、訳あって捕われの 身となった祖慶は、箱崎で妻子をもうけて暮らしていた。唐に残した二人の子は、父の帰りが遅いのを心配してはるばる博多にやって来る。子供との再会を 喜んだ祖慶は、日本で生まれた子供と一緒に帰国する物語の謡曲、石塔は父がすでに亡き者と思って子供が唐から持ってきたと伝聞。しかし、一番かわいそう だったのは、残された祖慶の妻。夫と子供から引き離されて悲嘆にくれて死去。別れる船の艫綱を結んだと言うのが唐船塔の横にある二個の夫婦石。そこに、仙 涯の歌「箱崎の磯部の千鳥 親と子となきにし声のこす唐船」と。 |
元寇防塁 |
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1270年代の鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた石による防塁。蒙古襲来(元寇)に備えて築かれた。弘安の役の際には防塁が築かれたところから モンゴル・高麗軍は一切上陸することは出来なかった。⇒石築地(中山平次郎の命名) |
プラン |
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1274年(文永 11)に元による侵攻をを受けた鎌倉幕府は本格的な異国警護に着手し、1276年(翌建 2)に異国征伐として高麗出兵のプランを出して、並行して 石築地を築造させ、元による再襲来に備えた。 |
築造 |
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築造は国ごとに区域を定め、大隅国の石築地賦役文書に拠れば、武家領や本所ー円地を問わず田1反当り1寸の割合で石築地役が、賦課されたという。1281年(弘安 4) の弘安の役までには一部が完成しており、元軍は博多への上陸を断念、志賀島に船団を停泊させたという。弘安の役の後も元の再襲来に備えて、異国警護体制は持続し、工事 や破損個所の修復が負荷。工事は鎌倉幕府滅亡の前年1332年(元弘 2)まで行われている。九州の御家人 竹崎季長の描いた『蒙古襲来絵詞』には、建築当時の様子が描写。 |
構造 |
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高さ・幅は平均して2mである。総延長は西:福岡市西区今津~東:市内東区香椎迄の約20km。内部には小石を詰め、陸側にスロープを持たせて海側を切り立たせている、築地には 楯を並べて、旗を立て、河口や波打ち際には乱杭を設けられた。 |
元寇 |
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日本の鎌倉時代中期に、当時大陸支配していたモンゴル帝国(元)及び服属政権となった高麗王国によって2度に亘り行われた日本侵攻の呼称。1度:1274年 文永の役 2度:1281年 弘安の役と言う。また、蒙古襲来とも、主に、九州北部が戦場となった。 |
春期社日祭(春分の日に近い戌の日) |
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博多では古くより、本宮の海岸の真砂をお潮井といい、これを「てぼ」といわれる竹かごに納めて持ち帰り自宅の玄関口に備えます。お潮井は「災いを除き福を招くもの」として、 常日頃より身を清めるお祓いに用いられます。また建築時の敷地や建物のお祓い、田畑の虫除け、豊作を祈るお祓い、病気全快に部屋にこの真砂を撒きます。波の花(塩)や切り火と ならぶ民間信仰で、旧筑前一帯に残る風習である。この日のお潮井は他の月ととは違い、特に尊いものとされ、参拝者で終日賑います。なお、7月1日、9日のお潮井とりは、博多祇園山笠 の舁き手が身の清めための真砂を浜で取って来る。 |
亀山上皇(亀山天皇) |
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1249/01/09(建長元年5月27日)~1305/10/04(嘉元3年9月15日)。鎌倉時代で、第90代天皇、在位は、1259/01/09(正元元年11月26日)~1274/03/06(文永11年1月26日)。1265年(文永 2)には、元 のクビライから国書が高麗を介して伝えられ、鎌倉から送達される。幕府は元に備えると共に、朝廷(京都)は、神社に異国降伏の祈願を行う。院政中には2回の元の対日侵攻(元寇)が起こり、自 ら(亀山天皇)伊勢神宮で祈願するなど積極的な活動を行った。(当時の治天・亀山上皇と天子・後宇多天皇の父子いずれかが「身を以って国難に代える祈願」を伊勢大神宮に奉ったことは史実のよう だが、父子のどちらにその祈願を帰すべきかは、大正年間、学者間で大論争を呼んでいまだ決着のつかない問題である)。 |
境内ー本殿、拝殿 |
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921/06(延喜 21)、藤原真材が創建。戦国時代 戦火兵乱で荒廃してのち、大宰大弐 大内 義隆により、1546年(天文 15)に再建す。本殿46坪、檜皮葺きの流造様式で左右にエン造車寄有。拝殿は檜皮 葺きの切妻造、二重虹梁蟇股。 |
境内ー楼門 |
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小早川隆景により1599年(文禄 3)に建立。三間一戸の入母屋造。扇桐紋彫刻は左 甚五郎作と伝聞。「敵国降伏」の扁額は亀山上皇によって奉納された醍醐天皇の震筆とされる。広瀬淡窓の「筑前 城下作」の詩の伏敵門はこの楼門を指す。一般の参拝はこの楼門の下で行われる。 |
神木 「筥松」 |
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楼門の右手の朱の玉垣で囲まれる松ノ木。神功皇后が応神天皇を出産した時、胞衣(えな)を箱に入れてこの地に納め、印として植えられたのがこの「筥松」と言われる。「筥崎(箱崎)」の名は この胞衣を納めた箱に由来する。 |
祭事 |
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○ 1月3日 玉取祭(玉せせり) ○ 9月12日~18日 放生会 どちらも博多の伝統的なお祭りである。 |