飾り山笠②
飾り山笠②
ソラリア、博多リバレイン、大黒流、上川端通流の山笠
ソ ラ リ ア
第15番 山笠 表 標題 黒田決戦石垣原 人形師 置鮎 正弘
内 容
九州における関ヶ原合戦とも云える石垣原(現在:別府)合戦。黒田官兵衛孝高(如水)は、家督を長政に譲り九州の豊前国中津城にて隠居
していたが、上方で関ヶ原合戦が行われようとする報告を、受けるや、ただちに挙兵して九州平定に動きだし、先づは小大名が多く配されている豊後を抑えて
自領の背後を固めようと考えた。しかもそこへ朝鮮の役にて敵前逃亡したため秀吉の怒りを買い周防国に改易させられていた宗麟の子 豊後国の旧主大友吉統が
旧領奪回に燃え、家の再興を賭して西軍として挙兵し、関ヶ原合戦の2日前(慶長ー五 1600年)9月13日、豊後石垣原において黒田官兵衛孝高は実相寺に、吉統
は立石に陣を敷き、ここに広がる「石垣原」にて七度に渡り戦ったと言われる。この合戦で、井上周防之房は旧知の間柄であった敵の主将吉弘加兵衛統幸と槍を
合わせ討ち取り、如水の勝利に貢献した。
第15番 見送り 標題 呑取名槍日本号 人形師 置鮎 正弘
内 容
黒田長政の遣いで、秀吉の家来である福島正則のもとへ出た母里太兵衛友信に、正則は大盃をなみなみと酒を注ぎ、太兵衛に勧めた。断る太兵衛に対して
、飲めば望の品をやると言ったため、見事その酒を飲み干してしまい、正則が秀吉から頂いたという名槍日本号を貰い受けた。母里太兵衛友信の主君黒田長政は秀吉の没
後、石田三成と対立するようになり、徳川家康に接近、1600年に起きた関ヶ原合戦では、豊臣系大名の事前の説得工作や合戦での活躍により、筑前国ほぼ一国を与えられ
福岡市東区の名島城に入った後、福崎という新たな城下町を築き、先祖発祥の地にちなんで、福岡城と名付けた。名槍日本号は、その後、慶長の役で太い太い太兵衛の窮地
を救った、母里太兵衛友信と並び称される豪傑後藤又兵衛のもとに渡り、現在はその槍が福岡市博物館に収蔵されている。
福 岡 城 に つ い て
福岡市中央区城内、別名:舞鶴城・石城。江戸時代初頭に完成し、外様大名 福岡藩 黒田氏の居城。梯郭式平山城、普請奉行は野口佐助一成、城地とされた福崎丘陵(
那珂郡警固村福崎)は、博多と那珂川を挟んだ西側にある。主に本丸を囲むように二の丸、その外に大きく三の丸が配され、47の櫓を配置、縄張の範囲は25万平方メートルある。東側に
那珂川を以って堀とし、また西方の干潟(その当時)を「草ヶ江」を大堀として活用した、此処が現在、大濠公園として整備されている。城下町は城の北側(玄海側)開かれた。築城の際に、
福崎と黒田家所縁の地である。⇒備前国福岡(現:岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名にちなみ「福岡」と改めている。加藤清正もこの城を評価していた。石田三成が指揮した石垣から、
「石城」とも呼ぶ。現在、城跡には門・櫓が現存している。多門櫓・二の丸南隅櫓は国の重文、潮見櫓・大手門・祈念櫓・母里太兵衛邸長屋門は福岡県指定文化財、名島門は福岡市指定文化財。
沿 革
安土・桃山・江戸の時代 1600年:黒田 孝高・長政父子は関ヶ原の戦の功績により、中津城16万石から、一躍、筑前一国52万3千石を得て、名島城に入城した。便宜上から
名島城を廃し、福崎丘陵を「新城」の候補地に選定した。1601年築城開始し、1607年に竣工した。
博 多 リ バ レ イ ン
第17番 山笠 表 標題 智勇誉軍師 置鮎 琢麻
内 容
智勇誉軍師 黒田勘兵衛(孝高/如水)を題材にしました。戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。豊前国・中津城主。孝高は韓国で通称の「官兵衛」や出家後の「如水」の号
で有名。豊臣秀吉の側近として仕え、調略やタ大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世に「両兵衛」「二兵衛」と称された。キリシタン大名でもあった。
長男は黒田長政(筑前福岡藩初代藩主)。
第17番 見送り 標題 祭博多之賑 人形師 生野 四郎
内 容
「祭博多之賑」は、長谷川法世さんの原作「博多っこ純情」の登場人物で博多3大祭りである「博多どんたく」、「博多祇園山笠」
、「放生会」を一場面に全部を表現しています。
舁 き 山 笠 大 黒 流
第3番 山笠 表 標題 威風堂々忠義漢 人形師 宗田 智幸
内 容
母里太兵衛は安土桃山時代から江戸時代にかけて武将であり、黒田如水(官兵衛)、長政に仕え、槍術に優れた武将として活躍した。文禄、慶長の役、休戦中、京都の福島正則の元へ
長政の使者として使わされた太兵衛は、正則に「この酒を飲み干せば好きな褒美を取らす。」と酒を勧められた。さらに「黒田の武士は酒に弱く酔えば役にたたない。」と家名を貶められた。太兵衛は、
黒田家の名を汚すまいと大盃になみなみと注がれた酒を一気に飲み干した。太兵衛は正則が秀吉より拝領した名槍「日本号」を所望し、正則は「武士にニ言ははない。」と褒美を差し出した。これに
より、太兵衛は「呑取り日本号」という異名と越天楽(筑前今様)の節回しと共に、「黒田節」として黒田家の男意気を示す逸話として広く知られるようになった。
子 供 山 笠
上 川 端 通 流
第8番 山笠 表 標題 軍師官兵衛 人形師 田中 比呂志
内 容
織田信長が褒め称え、豊臣秀吉が頼りにし、徳川家康が恐れた、戦国最強の軍師 黒田官兵衛。如水と号して、水の如くしなやかに生き、あくまで信義を貫き
通したその姿に敵さえも信頼を抱いたという。秀吉は官兵衛に九州征伐を命じ、根白坂の戦い(宮崎県児湯郡木城町陣の内)で島津義久を撃退した。
第8番 見送り 標題 正木宗七 博多人形 献 人形師 田中 勇
内 容
黒田官兵衛、長政と共に播州から福岡城の鬼瓦の瓦師として、博多入りした正木宗七は瓦町(当時:博多の地名)に住み瓦の粘土で人形を作って
長政に献上したのが博多人形のはじめである。その後、中の子家、白水家と共に博多人形の祖を築いた。聖福寺の仙厓和尚とは、最も親交厚く宗七は陶製の像
仙厓和尚を作った。