大隈重信
大隈重信
大隈記念館・生家
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<<1>> 大隈記念館 <<1>>
設計者 早稲田大学名誉教授 今井兼次工学博士で、彼は、シュタイナー(ドイツ)の建築理念「内的精神を宿すものの表れが建築」という考えや、ガウディ(スペイン)の「色は
生命である」、エストベリ(スウェーデン)の「建築は総合芸術」という理念のもとに今井兼次が設計した、秀作である。この建築物は、一見奇異な(奇妙な)感じがするが、これは大隈
重信のからだとスピリット、風格と香気を表わしており、建物自体が彼の人間像・人間愛を追求した総合芸術作品そのもの。全体としては、安定した巨岩に見え、外壁は左右の部分は、がっ
しりと張り出したカーブであって、県木である楠木の根幹と、大隈重信の体躯を重ね合わせてどっしりしてビクともしない姿を表現している。この建物の外壁に向かって左の部分の大穴は、
彼が、来島恒喜(国粋主義者)に爆裂弾を投げられて負傷し、脚を切断して隻脚になったのを表現する。正面二階窓の赤色ステンドグラスは、早稲田大学総長時代愛用したえび茶色のガウン
(早稲田のスクールカラー)を、濃い赤色の菱形は早稲田大学の角帽(ざぶとん帽子)を、窓下の壁に掘り込んだ左右対称の放射線状のえぐり部分は、大隈重信の目を、庇は鼻を、建物の
入り口は大きな口を表し、玄関ドアの取っ手の模様は家紋「裏梅剣花菱」を、それぞれ表している。館内に入り、階段部分の東の柱は、{東洋文明の柱」、西の柱は、「西洋文明の柱」の意味、
柱の上部をアーチ形で結びつけて「東西文明の調和」を表現している。そして、踊り場の頂光窓からふりそそぐ色光(青色)には、大隈重信に対して注がれた母・三井子の、「恩愛の慈光」
が込められているのである。
<<2>> 大隈 重信について <<2>>
1838/03/11(天保9・2・16)~1922/01/10(t-11)、佐賀藩士、政治家、教育者。政治家として参議兼大蔵卿、外務大臣(3,4,11,14,29代)、農商務大臣(13代)、内閣総理大臣(8,17代)、
内務大臣(30.32代)、貴族院議員などを歴任した。教育者としては、早稲田大学の創設者で初代総長。1865年(慶応-元)、佐賀藩が長崎の五島町にあった諫早藩士 山本屋敷を改造した佐賀
藩校英学塾「致遠館」(校長:グイド・フルべッキ(宣教師))にて、副島種臣と共に教頭格となって教育指導に当った。また、京都や長崎に往来して尊皇派として活動した。(英語はフルべ
ッキに学び)、この時 新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、後に大きな影響を受けた。1867年(慶応-3)、副島と共に、徳川慶喜(将軍)に大政奉還を勧める計画し、脱藩して京都へ赴いたが、
逮捕の上、佐賀へ送還され、1ヵ月の謹慎処分を受く。1869年(m-2)会計官・副知事を兼務、高輪談判の処理、新貨幣条例の制定などの金融行政にも携わった。1873年(m-6)5月、大蔵省事務
総裁、10月 参議兼大蔵卿に。彼の下には、伊藤博文・井上馨などの若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで、近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。この当時、伊藤、井上
らが集まって政治談議にふけった大隈の私邸を指して「築地梁山泊」と称した。また、民部省を吸収合併させて大蔵省を一大官庁とした大隈は地租改正に当る。殖産興業政策を推進、征
韓論には反対。その後、殖産興業と財政改革という点から1875年(m-8)10月には、大久保利通と連名で財政について意見書を太政官に提出したりしている。また、単独でも財政の意見書を出して
いる。さらに、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。大隈は、会計検査院創設のため建議をおこなっており、会計検査院は1880年(m-13)3月に設立。自由民権運動に
同調して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官物払い下げを巡りかっての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、大隈自身の財政上の失政もあり、1881年
(m-14)10月12日、参議を免官。→明治14年の政変である。彼は、10月15日で辞表を提出した。 下野後、大隈は、10年後の国会開設に備え、1882年(m-15)3月には、小野梓と共に、立憲改進党
結成、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らと作った。同年10月、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現 早稲田大学)を、北門義
塾があった当時は東京郊外だった早稲田に開設した。ただ、1884年(m-17)の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌とともに改進党を一旦離れている。1887年(m-20)、伯爵に叙された。
大隈の外交手腕を評価する伊藤博文は不平等条約のため、政敵を外務大臣として選び、1888年(m-21)2月より大隈は、外務大臣に就任した。同時、黒田清隆が組閣すると、大隈は、留任す
るが、外国人判事を導入するという条案が反対派の抵抗に遭い、1889年(m-22)には国家主義組織玄洋社の一員来島恒喜による爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受けて、右脚を切断するとと
もに辞職した。1896年(m-29)、第2次松方内閣(「松隈内閣(しょうわいないかく)と呼ばれる)再び外相就任するするが、薩摩勢と対立して翌年に辞職した。1898年(m-31)6月に板垣退助らと憲政党
を結成し、同年6月30日に薩長藩以外から初の内閣総理大臣を拝命、日本初めての政党内閣を組閣した。俗に言う「隈板内閣」(わいはんないかく)である。しかし旧自由党と旧進歩党の間に対立が
生じ、また、文相・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると、後任人事を巡って対立はさらに激化する。後任文相に旧進歩党の犬飼毅が就いたことに不満を持った旧自由党の星 享は、一方
的に憲政党の解党を宣言、新しい憲政党を結成した。組閣から僅かの4ヵ月後の11月8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなった。1907年(m-40)、
一旦政界を引退して、早稲田大学総長就任、大日本文明協会会長としてヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。1908年(m-41)、アメリ
カの大リーグ選抜チームと早稲田野球部の試合における大隈重信の始球式のデータが残っている。最古の始球式とされ、投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまっていたが、創設者、総長、
政治家の大先生の投球をボール球にしてはいけないと考えた早稲田の1番バッターは、空打して、”ストライク”に。この後、始球式の投球はボールでも空振りする慣例となった。
第一次護憲運動が興ると大隈重信は政界に復帰した。1914年(t-3)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛後を受けて、2度目の内閣組閣(第2次大隈内閣)。与党は立憲同志会、大隈伯後援会
→無所属団体→公友クラブ及び中正会である。7月、第1次世界大戦勃発と、中国大陸での権益確保を求めて、8月23日に対独戦線布告を行い、1915年(t-4)1月には、加藤高明と共に対華21ヶ条要を提出
した。但し、その後日本側は、第五号の7項目目を除外した。内相・大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると8月には大隈自身が外務相を兼任というこれまでの藩閥政治家と同様型を取った事件やその
事に対する弁明も批判されてしまった。さらに、政府に対する元老の圧迫が激しさを増し、1916年(t-5)10月、遂に大隈内閣は総辞職、以後大隈重信も政界から完全引退した。退任時の年齢は満78歳6
ヵ月で、これは歴代総理大臣中最高歴レコード。この間、1916年(t-5)7月14日に侯爵に陸爵にされ、貴族院侯爵議員となっている。
もうひとつ 逸話 : 浦上信徒弾圧事件の際、イギリス公使ハリー・バークスは「日本の行っている事は野蛮国のすることであり、今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ」と抗議してきた。その
対応に手をこまねいていた明治政府は、交渉役に、英語が話せ、キリスト教の知識もあった大隈を選び派遣した。しかし、当時大隈はまだ31歳だったため、バークスは「大隈ごとき身分の低い小役人とは
できぬ!」と激怒したという。しかし大隈は、「一国の代表者である私と話したくないと言うなら、抗議は全面撤回とみなす。また、貴方の言うことは、国際法で禁止されている内政干渉である」と言い返し、
互角に渡った。バークスは日本を極東の小さな島国ぐらいしか思っていなかったため、日本の若者の口から”国際法”や”内政干渉”という単語(ワード)が出てきた事に驚いたという。更に大隈は「或る歴史
家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。又、或る宗教家は言う、欧州の歴史は即ちキリスト教の歴史なりと。この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史は即ち戦乱の歴史なり。キリスト教は地に平和を
者あらずして剣を送りしものなり。キリスト教が生まれて以来、ローマ塗炭の苦に陥らしめたのは是何者の所為なり」と続け、今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば混乱が起きるとして、バークスを説
得したのだった。大隈はこのことが大きく評価されて政界の中心へと躍り出たが、その一方で信者であった浦上村の農民3384人は20藩に分けて移され、牢に入れられてキリシタン信仰を捨てるように
説得や拷問を受けることになった。次に、あちこちに大隈の講演には人気があったが、禁酒団体と酒造業組合を一日のうちに「ハシゴ」したことがあるという。これは大隈が政治家あるため様々方面に応援を
求めなければならなかったという事情も在る。早稲田大学非常勤講師の佐藤能丸さんは、このことが今日に至る迄、大隈の全集が発行されていない遠い原因となっていると指摘している。もうひとつ上げると、
大隈重信は、日本初の地方遊説を行った首相でもある。 ウィキペディア より。
<<3>> 大隈重信旧宅(生家) <<3>>
大隈重信は、佐賀城下の会所小路で生まれました。生家は武家屋敷の面影を残し、八太郎(大隈重信:幼少名)が生まれ育った家庭を偲ぶことができる貴重なもので、1965年(s-40)に史跡に
に指定。庭園には大隈重信候を敬愛した政治家、波多野敬直による「大隈重信候生誕之地」の碑が建立されています。
約200年ほど前の江戸時代に建てられた禄高300石取りの武家屋敷であり、敷地314坪(1038㎡)、建坪55坪(182㎡)。父ー信保(佐賀藩の砲術帳、禄高300石)、母ー三井子の間に長男として誕生
ー幼少名は八太郎と呼ぶ。(謂れ:八は産土神である龍造寺八幡宮の八、太郎は長男を意味する)。4人姉弟であった。次に、建物は木造瓦・葦葺き併用の一部2階建。1965年、文化財保護法によって、
国の史跡に指定。
生家の特徴 ●2階の勉強部屋ー大隈重信が藩校弘道館に入学(6歳)の際、母が増築。●長押(なげし)ー座敷の鴨居の部分に、横に差し渡した飾りの長板。武器(槍、刀)等の隠し場所と
しても利用された。●ー家の中心に位置し武士が話し合う時、声が外に漏れない構造に作られている。●蔀(しとみ)ー格子組みの裏に板を張った戸で、支柱で支えて開ける。昔の建物に多く見られ、
雨、風、日光を防ぐために取り付けられた。●床の高さが低く、間者(忍びの者)が床下に潜り込めない構造である。また一説には、佐賀鍋島藩の質素倹約の令にしたがい、建築用木材の節約のため
とも言われている。